Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

なんとなく不安なときにも効く『お釈迦さまの処方箋』平岡聡

2年前からひとり暮らしをしている長男。大学受験は後期試験までしぶとく粘り慌ただしく出ていったきりなので、彼の部屋の本棚は未だ大量の参考書や赤本で埋め尽くされている。こんなに勉強してたのだろうか?としみじみ眺めていると、ふと仏教の本が何冊か混ざっているのを見つけた。その中の一冊『お釈迦さまの処方箋』2019, を拝借し、パラパラと読んでみる。



京都の学校にはよくあることだが、息子たちは中高ともに仏教教育を受けていた。今どき珍しい男子校だが、法然上人の教えが、幼き彼らの性質にじんわり馴染み「共に生きる」ことを意識づけられていたのだろう。とても良い学校だったし、素直な子が多かったと記憶している。いま「息子たち」といったのは一つ下の次男も同じ学校だったからである。面白いのは本棚の少し離れた場所に同じ本がもう一冊あったこと。間違いなくそれは次男の仕業で、彼は自分の部屋の不要物を兄の部屋に運びこむ習慣がある。赤本がやたら多いのもそのためだろう。それはさておき、二人はこの本をどの程度読んだのだろう。もしかしたら一度も開かなかったかもしれない。


私が仏教に関心を持ち出したのは息子たちの影響もあるが、ヨガ愛好家としてその思想に共通するものがあったからだ。ヨガ歴十数年、私の朝はヨガから始まる。未だ瞑想の境地には達したことはないが、ヨガは己を無にしてくれるし、何も持たない生まれたてのような人間に毎朝リセットしてくれる。これは不思議なんだけど、常に自分自身を俯瞰するもう一人の自分がいる。それによって客観的な判断や、合理的なものの見方ができるようになってきた。生きるのが楽になったともいえる。お釈迦様(ブッタ)の教えもおなじ。悩みや不安の芽が出たときに、その根源を理解すると自ずと摘み取ることができる。仏教はとてもシンプルで合理的な思考をもたらしてくれるのだ。


本書で取り上げられている経典をひとつ、

過去を追うな。
未来を願うな。
過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ていない。(略)
今やるべきことのみを熱心になせ。
明日(自分が)死ぬことを誰が知っていようか

これは「人は毎夜死に、毎朝生まれる」という考えに基づいているのだが、人はなぜ過去を後悔し執着するのかというと、自分はまだ当分は生きるだろうという考えが当たり前にあるからだと言います。明日には死んでるかもしれないと思えば、今この瞬間を大事に生きようと思える。


そうだ息子たちはずっと昔に『ふたりはきょうも』という絵本で、このことを学んだはずである。散らかった部屋の掃除をしないで「明日やるよ」というガマくんに対し、カエルくんは「もし今日やれば、明日は憂鬱じゃなくなるのに」と優しく伝えるお話だ。今できることは今やろうということは、日本に限らず、世界共通の教訓なのかもしれない。



もうひとつ有名どころでは、

人はなにかを得ることで、なにかを失う
なにかを失うことで、なにかを得る

という言葉がある。たしかに、、、。必死でなにかに向かって走り切った結果、なにかを犠牲にしてしまったり、なにかを手放したからこそ得られたものやご縁があったというのは、長く生きていると誰しも経験があるのではないだろうか。だからこそ人生はおもしろい。不幸なのは、何かを持っているがために捨てられずに悩んでいることだ。


本書はその他にも、人生を充実させるヒントが満載。中高生の悩みから大人の悩みまで、処方箋として各章でわかりやすく説かれている。また最後には「お釈迦さまからの常備薬」と題して、仏教の名言集が掲載されていて、これだけでも読む価値があるのではないだろうか。すーっと悩みが消えて、人生が開かれていく感覚を味わってみてほしい。


そういえば2017年のこと、息子たちの高校の校舎に2頭のイノシシが乱入し暴れまわる事件があった。ケガ人がいなかったのは奇跡だが、これこそが日頃の認識が功を奏したのではないか。彼らの瞬発力?もあっただろうが、正しく恐れ、正しく判断、そして最も重要な「平常心」を崩さなかったのは教員側のほうだったかもしれない。頭が下がる思いです。



※オススメ本

春、新たなるやかた

沼が散在する書物の森を抜けだし、この春から、ここ関西大学総合図書館でお世話になることになりました。大阪、私大ということでかなり新鮮に映ったものの、そういえば私は生まれも育ちも大阪だった!ということを思い出し、懐旧の情が湧きだしてきた。元気な大阪、きっとすぐに慣れるだろう。



100年超えの歴史がある関西大学総合図書館は、約225万冊、雑誌2万4000タイトル、電子ジャーナル2万タイトル、その他、個人文庫、貴重書を含め、膨大な資料数を誇る図書館である。


この数をみて逆に驚くことは、先月までいた某文学研究科図書館の所蔵数は約115万冊、毎年約一万冊づつ増え続けているから、学部図書館にしてはBIGすぎるのではないかということ。いずれ書庫の床がぬけ落ちることだろう。


知らんけど。


とにもかくにも、この新たなやかたで繰り広げられる景色を楽しみたいと思う。
もし溺れかけたら、それはそれで、身も心もをゆだねてみよう。

『はじめてのギリシャ神話解剖図鑑』河島思朗監修

西洋古典学ご専門の、河島思朗先生より賜りました『はじめてのギリシャ神話解剖図鑑』(2023) 。大変ありがたいことです!



本書は、ギリシャ神話にまつわる基礎知識から専門知識まで、イラストや図を用い、わかりやすく解説された図鑑です。入門書?とはいえ、かなりの情報量が盛り込まれていますので、隅々まで目を通すと読み応えたっぷりです。


第一章、天地創造~神々の世界と人間の誕生
第二章、英雄たちの活躍~大冒険ファンタジー
第三章、戦いの時代~トロイや戦争とオデュッセイア


という流れになっていますが、気の趣くまま、どこから読んでも楽しめるようになっています。


ギリシャ神話の神々や英雄は、ゲームやアニメのキャラクターに起用されているほか、多くの文学、星座、絵画、そして音楽においても、モチーフとして多彩に扱われていますが、その数の多さにあらためて驚いてしまいます。


用語としては、例えば「アテナイ」(現アテネ)は女神アテナに由来していて、「アマゾン」は女性部族アマゾネス、「タイタニック号」はティタン神族、「ナイキ」は女神ニケ、「ヘリウム」は太陽神ヘリオスなど、枚挙にいとまがありません。


「これが由来!」というマークが付けられているところは必読です。


古代から現在まで、国を渡り、海を越え、これほど多くの物、事柄に影響を及ぼしたギリシャ神話とは、いったいどんな魅力があるのか、本書を読めばきっとなにか見つかるはずです。


個人的には、王女アリアドネの恋にまつわる「アリアドネの糸」のエピソードがお気に入り。迷宮脱出のカギとなった「赤い糸」に神秘を感じます。


アリアドネの糸」はまえがきでも触れられています。
ギリシャ神話を知る旅路が、曲がりくねった迷宮を進むような、わくわくするような冒険となり、本書がアリアドネの糸になることを願っています」というお言葉からも、神秘的想像が膨らんでいきますね~。


ぜひ本書でワクワク感を味わってみてください。


古代ローマの、普通の人たちの暮らしぶりを、職業を通して解説されているこちらの書籍もオススメ。
ranunculuslove.hatenablog.com


※河島先生の一般向け講座はとてもわかりやすい!
毎年のようにローマを訪れていらっしゃるようで、こちらの講座も楽しそう。
www.asahiculture.com

本当は怖い「バベルの図書館」

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)の「バベルの図書館」を巡っては、世界中の読者の想像力を掻き立ててきたことだろう。私もそのひとり。出会いのきっかけは、映画『薔薇の名前』(原作、同タイトル Il nome della rosa ウンベルト・エーコ著 , 1980 )だった 。中世イタリアのベネディクト会修道院で起きた連続殺人事件を、主人公アドソと、師ウィリアムが解明していくというミステリー。俳優陣の名演に引けと取らない、修道院図書室や写字室のリアルな映像に魅入ってしまった。登場人物の一人、盲目の老修道士ホルヘは、ボルヘスの写し鏡であり、修道院の迷宮図書室は「バベルの図書館」をイメージして造られたと知り、この書に行き着いた。


これまで、鼓直訳と、篠田一士訳を読んだことがあるが、昨年秋に発売された雑誌「MONKEY」に新訳(野谷文昭 訳)が収録されていたので、こちらも読んでみた。



どの訳で読んでも、ボルヘスは変わらずそこに在り、私を圧倒させる。宇宙の比喩である「バベルの図書館」の神秘を、どうにか伝えようとしても、私には無為無能だということもまた変わらない事実である。それでも何度か読み返しているうちに、ふと新たな解釈が生まれてくるものだ。「図書館は無限にして周期的である」ということの意味が、うっすら見えてきたような気がする。今回は、あえて2つこと「ごちゃまぜ言語」と「鏡」に注目してみた。


まず背景として、知っておきたいのが「バベルの塔」である。かの有名なブリューゲルエッシャーが描いた絵「バベルの塔」は、旧約聖書『創世記』11章にあるお話を具象化したものだ。ノアの大洪水の後、天まで届く高塔を造ろうと、人々が協力して瓦を積み上げていくのだが、その行いが神の怒りを買い、人間同士の言葉を通じなくさせたというお話。意思疎通が不可能となった人々の離散が、世界の言語の起源であるという説もある。「バベル」は土地の名で、ヘブライ語で「ごちゃまぜ」と意味付けられ、言語の混乱状態を表わす語になったとも言われている。


『創世記 : 旧約聖書の第壹巻』,英国聖書会社(大正11.)は、国立国会図書館デジタルコレクションでネット公開されている。ほんの2ページなので是非ご一読を。
dl.ndl.go.jp


このお話を基にするなら「バベルの図書館」の源泉は「ごちゃまぜ言語の図書館」ということになるだろうか。ボルヘスは、その宇宙(図書館)は神がお造りになったものと示唆しているし、当時すべての書物は25の記号の無意味な列挙であった。はるか昔の言語なのか、方言なのか、見る人によって判別が違っていて、司書たちも、そこに意味を探し求めたりはしなかった。


そうして長い年月が経ち、「ごちゃまぜ言語」はようやく世界の言語として確立した。それを機に、図書館には、同一の書物はなく、あらゆる言語の、あらゆる書物が所蔵されている、ということが証明されたのだった。


しかしこれは必ずしも良いものではなかった。知識を我がものにしようとする者たちが、ある一冊の書物を巡り、神のもとで争いを起こしたのだ。ふたたび文字を「ごちゃまぜ」にさせられる危機にさしかかったが、それと引き換えに、役に立たない書物を破棄されることになった。


図書館の「鏡」は、複製の比喩でもある。書物は破棄されても複製が可能だ。書物は周期的に繰り返される。つまり文学作品とは同じテーマの繰り返し、あるいは変奏である、ということはボルヘス自身もたびたび口にしている。数多の自作品についても、以前誰かが書いたものと同じなんだ、と信じて疑わない。


図書館は無限にして周期的である


人類は滅亡しても、宇宙(図書館)は無限である。自分は不幸になっても、良い書に巡り合う人が幸せであればそれでいい、そう思うと孤独に光がさした、というボルヘスの言葉にしみじみと共感してしまった。


この極端に濃縮された神秘物語には「有限と無限の不条理」「過度の期待がうむ失望」「欲は悲劇を巻き起こす」というような寓意も込められていて、バベルの図書館は、私たち人間社会の写し鏡でもある。そっと覗いてみれば、怖くて恐ろしい未来が映し出されるかもしれない。




※「バベルの図書館」鼓直訳は『伝奇集』(1994) ( 原タイトル:Ficciones 1935-1944 ) に収録されている。


篠田一士訳は『世界の文学9』(1978) に収録。
Kindleではこちら


※小説『薔薇の名前』上・下(1990)

※映画『薔薇の名前』(1987)


※参考文献
●バベルの図書館の緻密な数値記述をもとに、蔵書数や積書距離などが割り出されていて、とても面白い。


●数学の観点から図書館を想像できてるという点で類似する。
クルト・ラスヴィッツ著「万能図書館」(The Universal Library)
『世界SF全集 31 - 世界のSF:短篇集・古典編』1971


ボルヘスのインタビュー集成



さて、そろそろ私はこちらに手をつけるべく、お借りしてきた。

混乱しがちだが、こちらはボルヘスの選りすぐりで編まれた、古今東西のアンソロジー。各章にはボルヘスによる序文が収録されている。


これを読み終わるころ、私はこの広大な書物の森を抜けだすだろう。
文学で世界を旅した経験が、私の血肉となったことは幸運であった。

カズオ・イシグロの書評からたどる Uchi 論がおもしろい『水商売からの眺め : 日本人の生態観察 』ジョン・デイビッド・モーリー著

「うち」という言葉は、外国人からすると、たいそう奇妙であるらしい。関西では、おもに女性が「私」の代わりに用いたりする。他にも、うちの子に限って、うちの人、うちの会社、うちらの世代、、、など、老若男女、津々浦々、よく耳にする言葉ではないだろうか。強い絆で結ばれた内々の人、または集団を意味し、自分自身も含まれることもある。わたしたちが無意識に発しているこの言葉に、モヤモヤする外国の方がいるというのは考えてみれば、ごもっともである。「I」なのか「We」なのか、、、ドッチヤネン!! となるだろうし「He」「She」「They」にも対応しうるなんて、、、ナンデヤネン!!と言いたいところだろう。


日本人が、心の中で引く「うち」と「そと」の境界とはなんであるか、ということを徹底的に観察し、解き明かそうとしたのが、イギリスの作家、ジョン・デイビッド・モーリー。彼は25歳の時に、日本政府招へい留学生として早稲田大学へ留学した。時代は昭和48年から3年間。その実体験をもとに『水商売からの眺め : 日本人の生態観察 』(Pictures from the water trade : adventures of a Westerner in Japan , 1985 )という小説仕立てのエッセイを書き上げた。


言葉を通して、日本文化を考察するスタイルは斬新である。西洋の若者が見て感じた、ありのままの日本の姿を、主人公ブーンに代弁させ、生き生きと描ききっている。現在の私たちにとって、ひと昔前の、ザ・昭和の光景を客観視することは、もはやフィクション小説を読むかのように十分に楽しめるものであるが、イギリス特有のアイロニーが点在しているため、当時の日本人読者の間で物議を醸したのではないだろうか。いずれにせよ、この小説は6 か国語に翻訳され、日本でもベストセラーになったというから驚きである。



日本人の「うち」の概念は、昔ながらの日本家屋に共通するのではないか、とモーリーは考える。東京のアパートと、富山の田舎暮らしで気づいたことは、家の中にプライバシーが確保されていないこと。ふすまや障子は薄っぺらく、換気のために開け放たれることも多い。その反面、家の外の塀は頑丈に造られ、一心同体のような「身内」と「他人」とを、大きく隔てる壁となっている。「内」を重要視するあまり「外の人」には一定の距離をおく。この壁は「本音」と「建て前」、「義理」と「人情」を重んじる日本人の美徳の象徴ともいえる。つまり、あらゆる日本の文化において「うち」が根底にあり、その概念の強さが、モヤモヤの原因となる「曖昧さ」を生み出しているのだと結論づけている。


実はこの小説に対して、カズオ・イシグロは「London Review of books」という雑誌で書評をかいていた(というのも驚きである)。

(ネットで全文が公開されています)
London Review of books ( August, 1985 vol.7 No.14 )
www.lrb.co.uk


本書は「究極的に閉鎖された日本の社会に侵入しようとした、一人の男の魅力的な本」であると、イシグロは負けじとアイロニーでもって、高く評価している。


一方で、モーリーの「Uchi 理論」は、行き過ぎている面もあると指摘し、日本人の性質を著しく単純化させる危険性があると警笛を鳴らしている。当時の日本人は、働きすぎのサラリーマンや、ステレオタイプの人々、自殺の多さなどから、ネガティブなイメージが先行し、感情の伴わない「エコノミック・アニマル」や「非人間的」と呼ばれていた。イシグロが懸念するのは、モーリーにも同様の見方があり、西洋文化こそが世界の中核であるという考えが根底にあるのではないかということだ。そうでなければ、そこまで日本人を否定する理由に説明がつかない。イギリス人と日本人は共通する性質があると考えるイシグロにとっては、残念でならないのだろう。


しかし、故郷を離れ、受け入れてもらえると信じていた日本社会から拒絶された苦い経験を、フィクションの中で伝えたいと考えることは当然のことだと、温かく手を差し伸べている。イシグロ自身も経験したかもしれない異文化での風当たりの強さに、理解を示したのだろう。モーリーは水商売の世界だけが、自分を受け入れてくれたと感じていた。そこには「よそ者」はどこにもいず、安心して自分をさらけ出せた。普段厳格なサラリーマンも、ここへ来て上着を脱げば、たちまちリラックスして本音トークが始まるのだ。「うち」も「そと」も関係ない、こういう場所が日本にも存在するのだと知り、このような世界から、改めて日本を見つめ直そうとしたのかもしれない。


イシグロが残念に思うもう一つのことは、この本のタイトルが「水商売」であること。つまり、色宿、クラブ、キャバレーなどの夜の世界が、この本の主要な関心事であるかのように暗示されている点だ。「本書のタイトルにふさわしいのは、日本の家「Uchi」ではないだろうか」というのは、私も同意見だ。やや批判的ではあるものの、そこに攻撃性はなく「a pity」 という語を用い「残念」のなかに、哀れみと同情心が含まれているところに、イシグロらしさが感じられる。私個人的には「adventures of a Westerner in Japan 」という副題があることで、いかがわしさも和らいでいると感じるが、なぜ「日本人の生態観察」と訳されたのか、むしろそこが「a pity」でならない。


さてこの作品を、イシグロ文学の観点から読むならば、モーリーの「運命観」についての言及は、決して見逃すことはできない。モーリーは「運命」と「宿命」の違いについて簡単に説明した後、日本人は「運命」を辛抱強く受け入れ「宿命」のままに従う風習があり、禁欲主義や、あきらめの精神を生み出している、と述べている。たとえば、二十世紀の日本軍は、戦略的には敗北していると知りながらも、日本が優勢に転じると信じている。敗北したとしても、これも運命だと受け入れるのだ、と。


イシグロは、鋭く指摘する。「モーリーは、日本の歴史について深い知識もなければ、社会学的なデータも持ち合わせていないようだ。・・・・日本人が「運命」や「宿命」にとらわれやすいのは、神道や仏教の影響だけではなく「武士道精神」(the samurai ethical code)に由来している」と。「武士道」とは、広辞苑によると「明治以降、国民道徳の中心とされた、主君への絶対的な忠誠のほか、信義・尚武・名誉などを重んずること」とされ、これは西洋の「騎士道」にも通じる。


ちなみに、イシグロがこの書評をかいたのは1985年(昭和60年)御年31歳。執筆した小説でいうと『遠い山並みの光』(A Pale View of Hills, 1982) と、『浮世の画家』(An Artist of the Floating World,1986) の間にあたる。戦後の日本を舞台にしたこの2作品に、大きく関わるモーリーの見解を、どう感じとっただろうか。加えて、あきらめや不幸が、日本文学の古典的なテーマになっているというモーリーの批判をも逆手にとり、イシグロはその後の作品でも「武士道精神」や「運命観」をテーマにし、成功おさめてきた。


浮世の画家』の小野益次の「武士道精神」は、イギリスへ渡り『日の名残り』(The Remains of the Day,1989)、のスティーブンスに託された。『忘れられた巨人』(The Buried Giant , 2015 ) のガウェインは「騎士道精神」の中核を成していたし、感情の抑圧や、変えられない運命を受け入れるという意味では『わたしを離さないで』(Never Let Me Go,2005年)のキャシーが、そして無条件の献身、奉仕については『クララとお日さま』(Klara and the Sun , 2021 ) のクララが引き継いでる。イギリスと日本に限らず、人であれ、クローンであれ、ロボットであれ、イシグロが問いかけるテーマは一貫している。


「言葉で意味を隠す」ということに関心を寄せていたイシグロが、モーリーの「Uchi」論にどれだけ刺激を受けたのか、考えてみることは楽しい。
そしてあらゆる角度から、日本文化を眺めてみることは、とても有意義な時間であった。


※合わせて読むと面白い

1900年アメリカで出版された後、英語以外に様々な言語に訳されベストセラーとなる。
フランス人タレーランが定義した、日本人にとって言葉というものはしばしば「思想を隠す技術」であるというのは、いかにもイシグロ文学の核心をついている。