Ranun’s Library

図書館や本についての空想を綴ります

イシグロ文学は、ハートフルネスだった

カズオ・イシグロ
『クララとお日さま』を読んでから、


「マインドフルネス」に行き着き、


これらの本を、読みあさるに至る。

マインドフルネスストレス低減法

マインドフルネスストレス低減法

スタンフォードの心理学授業 ハートフルネス

スタンフォードの心理学授業 ハートフルネス


最近よく耳にする「マインドフルネス」。
簡単にいえば、仏教由良の瞑想のこと。


瞑想とは、どこか別のところへ行くのではなく、
呼吸を通して、瞬間瞬間に意識を向けること。
今感じる感情をあるがままに受け入れ、心を休めること。


私はヨガ歴が長く、毎朝欠かせない日課だが、
未だに瞑想は苦痛だ。10分ともたない。
しかしヨガのポーズ中に、瞑想状態に入ったことが過去2回ほどある。
とても不思議な体験だった。
(ヨガの話は、またいつかきっと、、、、)


一度でも経験がある(と思っている)だけに、
瞑想の素晴らしさがわかる。
とても説明できないので、
著者の言葉を拝借すると、
「知覚や直感、精神的平穏、内面の調和、精神世界に対する意識と認識が深まっていくのを感じることができる」のだ。

なぜ今、「ハートフルネス」か

この「マインドフルネス」に加え、
「コンパッション」(慈悲、思いやり)と、
「責任」を基本要素とし、
人々や自然、精神的な価値とつながること、
著者(スティーヴン・マーフィ重松)は、
それを「ハートフルネス」と名づけた。


言い換えるなら、
内なる世界と外の世界をひとつに結びつけること。
自分の役割を知り、他者と共感し、生きる目的を見出していくことは、今とても大切だと感じる。


ここで「ハートフルネス」を育てる8つの道、というのを紹介しよう。

① 初心
② 開かれた弱さ
③ 真実性
④ つながり
⑤ 深く聴くこと
⑥ 受容
⑦ 感謝
⑧ 奉仕


これらひとつひとつ、内容を順に読んでいくと、
あることに気が付いた。


これらは全てイシグロ作品の中に含まれているではないか!!と。


試しに、8つの道を登場人物にになぞらえてみた。

イシグロ作品の「ハートフルネス」

①初心
クララ(『クララとおひさま』)は謙虚で、緻密に観察し、いつでも公平な態度をとる。自分を取り戻すため時々初心に戻り、店長の言葉を振り返る。物語の最後も店長との会話だった。


②開かれた弱さ
キャッシー(『わたしを離さないで』)は、人間誰しも不完全な性質だと理解しているので相手を責めたりしない。自分の弱い部分も心を開いて相手の感情と繋がろうとする。他人との競争意識や比較を手放している。


③真実性
ティーブンス(『日の名残り』)は偉大なる執事でいることは、自分の天命、天職であると信じていた。何があろうと、自己に真実を見出そうとしていたが、それをうまく表現するまではいかなかった。


④つながり
ベアトリス(『忘れられた巨人』)は、夫や息子とのつながり、村のコミュニティを大事にしていた。弱者に対しても、戦士や神父に対しても共感をもち深いつながりを持とうと努力していた。


⑤深く聴くこと
店長さん(『クララとお日さま』)は、クララの良き理解者であった。時にはアドバイスし、時には同意できず沈黙をつくりながらも、ハートで聴くという積極的傾聴に努め、クララを励まし、外の世界で活躍できるよう見守っていた。


⑥受容
リック(『クララとお日さま』)は運命は変えられないと知り、現実をそのまま受け止めていた。制限された中で、自由や希望をみつけていた。AIクララの意見も尊重し、寛大な態度をとっていた。


⑦感謝
ミス・ケントン(『日の名残り』)は、過去を悔んだり、業績達成の実現よりも、すでにあるものに感謝するほうが、深い安らぎを得られることを知った。どんな状況も相手も、ギフトとして受け取れるようになった。スティーブンスには感謝している。


⑧奉仕
ガウェイン(『忘れられた巨人』)は騎士道精神に基づき、忠義、奉仕の美徳をもっていた。義理と人情の板挟みで、長年雌竜を倒すことを躊躇していたが、ある意味人々の平和に奉仕したと言える。


若干こじつけ感も否めないが、、、。


これに加えて、
カズオ・イシグロの小説は読むだけで癒されるし、
内容を深めることと、他分野への関心が同時に叶い、
内なる世界と外の世界が結びついている。


イシグロ文学は、
まさにまるごと「ハートフルネス」だった!

『クララとお日さま』”Klara and the Sun” カズオ・イシグロ ③

『クララとお日さま』”Klara and the Sun” カズオ・イシグロ ②の続き



クララとお日さま

クララとお日さま


【ネタバレ含む。まだ読んでないかたはご注意を!】

テクノロジーの発展と危機

ラニアが変態野郎と呼ぶ男、カパルディはジョジーの複製を試みていた。
弱っていくジョジーの存続のために、クララが置き換えられようとしている。
それに賛同する母親と、反対する父親、努力しようとするクララ。
カパルディは、継続できないような特別なものはジョジーには見つからなかったと言う。
データ保存さえ成功すれば、人は複製できるのか、
それは本当に残された者への慰めになるのか。



この問題には危機感を覚える。
「心を学ばなければ絶対にジョジーにはなれないんだ」
という父親の言葉に、共感し、拍手を送りたいぐらいだ。
しかしここで答えを求めること自体、取るに足らないことなのだろう。



イシグロはこのような非常に倫理性のある問題を提示しながらも、あくまで心配すべきことは、その背後にあると言っている。
AIの脅威や、AIが人類を支配する話を書きたいわけではなかったということを、もう一度思い出さなければならない。



AIに置き換えられ、職を失った人々が、どのようにして社会貢献していくかという問題。今まさに起ころうとしている、あるいは起きているなかで、その答えがみつけられていないことをイシグロは危惧している。現在のコロナ禍においても、非常に深刻度を増している。危機的状況の中に生きている私たち個人が、生き方を完全に見直さなければなならない時が来たのだ。ジョジーの父親が言うように、置き換えられたからこそ、世界を違う目で見られるようになった。何が大切で、何が大切でないか見分けることができるようになったという、この気づきこそがイシグロの願いでもあり、リアリティーとなって迫ってくる。



信念を手放すことができるAI

人は生きていく過程で、知らず知らずのうちに各々の信念を持つようになる。
時に執着し、盲目的に進み、自己を苦しめる。
クララの母親も、リックの母親もそうだ。
信じてきたことを手放すこと、価値観をひっくり返すことは、簡単ではない。



翻ってIAクララは、学習から得た信念が間違いだと理解したとたん、いとも簡単に手放している。



お日さまは特別な力があり、人間を生き返えさせることができる。
お日さまは一日の旅の終わりに、マクベインさんの納屋で休息している。
リックとジョジーの愛が永久なら、お日さまに交渉できる。
クーティングマシンを破壊しなければいけない。
懸命に努力すれば完全なジョジーになれる。



これらはみな、クララの哀れな勘違いであった。
しかし間違えたデータは修正、更新できるため、そこに感情をもつことはない。



ふと、クララが嗅覚を持っていないことが気になり、調べてみると、
嗅覚は、記憶や感情を処理する部分と密接にかかわっていることがわかった。

嗅覚の回路においては、一度鼻の受容器によって匂いが探知されると、そのシグナルはまっすぐに匂いを分析する嗅球へと運ばれます。そして扁桃体と海馬という記憶と感情を処理する部位に接続されます。

引用、参照した記事↓
logmi.jp
www.nikkei-science.com


新型AFは、嗅覚が備わったというのも納得だ。
それはさておき、
感情とはやはり、常に人間を支配してしまうものだ。
公平で客観的な視野をもっているクララに、学ぶべきことがあるのか、クララはわたしたち人間に、どんなメッセージを発信していたのだろうか。



クララの回想

最終的に、お日さまはジョジーを救ったのかどうか?は実は曖昧だ。
あの日、まるでファンタジーの世界に転がりこんだような瞬間、何が起こったのか、

お日さまの栄養が洪水のように部屋に流れ込んできて、リックとわたしは勢いにおされてよろめき、バランスを失いそうになりました。
(略)
無数の小さな漏斗やピラミッドが、シャビー鉛筆で描いたようないろいろな形が、空を縦横に飛び交っていました。そして、いまお日さまが厚い雲を突き破りました。その瞬間、部屋にいた全員が、まるで秘密のメッセージでも受けとったかのように、いっせいにジョジーのほうを振り向きました。
(略)
ジョジーの寝ているベッド全体を、お日さまが強烈なオレンジの半円で包み、照らしています。
(Kindle の位置No.4714-4721)

この夢幻的なシーンは、いまにも映像が浮かんでくるようだ。
理屈抜きの美しさがある。
この日を境に、ジョジーは元気になったのだから、お日さま(神様)のご加護があったのだろう。
しかし交渉の材料であった、ジョジーとリックの永遠の愛はどうなるのか。



大学生になったジョジーは、リックと別々の道へ進むことになるが、心と心は繋がり合い、あのコーヒーカップのご婦人と、レインコートの老人の再会する日がくると、お日さま(神様)はご存じだったのだ。



クララは、自分の役目を終えたと理解し、自ら物置部屋へ居場所をつくる。
そしてこれまでの記憶を整理するのだった。



クララの最後の言葉に、
この物語の全ての答えが隠されているのではないだろうか。

(継続できないような)特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジー愛する人々の中にありました。
(Kindle の位置No.5051)

自分が買われた目的「ジョジーを継続すること」はいくら努力しても、はたせなかったけれど、それ自体は間違いであった。
人の個性はその人だけのものであり、たった一つである。たとえ別れ別れになっても、たとえ死にいたっても、その人の魂はまわりの人の心の中に生き続け、永遠に愛される価値のあるものだ、、、と解釈できようか。



最後まで読んで気が付くことは、
「心」( mind, heart )という言葉がが非常によく用いられていること。
心よりの愛、
心からの願い、
心の中で、
心に浮かぶ、
心が晴れない、
心に決める、
心強い、
心ここにあらず、
心を学ぶ、
などなど、
いかにイシグロが「心」の在り方、
ハートフルネス、
マインドフルネス、
を意識していたが伝わってくる。



さらにいうと「心配」(worry)という言葉も、多用されている。
その多くはクララから発せられるもの。
ジョジーに対しての心配や、
観察すればするほど不可解な人間の心の複雑さ、
たとえば、
人の愛情はどこからくるもので、なぜ変化するのか、
人はなぜ自ら孤独を選ぶようなことをするのか、
という問いを、
心を配りながら、わたしたちに発信し続けていたのではないだろうか。




最後になってしまったが、ストーリーを追うごとに、クララをはじめ、ジョジーとリックの「心」の優しさに感銘を受け続けていた。
殺伐としたコミュニティにいて、無力感と隣り合わせでも、こんなに純粋でいられるとは、痛ましくもあるのだけど、美しくもある、いつものイシグロマジックなのである。
そして、期待を裏切らないイシグロ作品の、しみじみとした、あたたかいラストシーンが、やはり好きだ。


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『クララとお日さま』”Klara and the Sun” カズオ・イシグロ ②

『クララとお日さま』”Klara and the Sun” カズオ・イシグロ ① の続き


クララとお日さま

クララとお日さま


【ネタバレ含む。まだ読んでないかたはご注意を!】

ラニア ハウスキーパー

ラニアは、ジョジーの家のお手伝いさん。
なぜだろう、私はこのメラニアが気になってしかたがない。
ハウスキーパーというと、『日の名残り』の凛々しいミス・ケントンを真っ先に思い浮かべてしまうのだが、同じヨーロッパ出身とはいえ、メラニアは大きく異なる。
イメージとしては『家政婦はミタ』のミタに近い。



ジョジーには献身的だか、クララに対しては冷たい。
クララとは呼ばずAFと呼ぶ。
原文で読むとよくわかるが、言葉の運びもどこかおかしい。
「ついてくるなAFどっかいけ」
「消えろ、クソ太陽!」
といった感じだ。
私はこのガラの悪いメラニアが、何か事件をしかけたり、家庭の秘密を流出するキーパーソンではないかと疑っていたが、何事も起こらず、結果的には杞憂に終わった。



もうひとつ不可解なのは、
AI進化の時代、未だハウスキーパーが存続しているということ。
ジョジーは母親と二人暮らしだが、ハウスキーパーやAFがいる。
そんな裕福な家庭には、お手伝いロボットなるものが、一家に一台あってもおかしくない。



優秀な才能や技術こそ、AIに仕事を奪われるのだろうか。
たまに会いに来るジョジーの父親もその一人。
ここでは「置き換えられた」( substitutions )という言葉が使われているが、まさにAIに技術をとって代わられたのだろう。
エリートといわれる人々が、仕事を失ってしまう時代が、もうそこまでやってきているのだろうか。



技術や才能は様々だが、そう考えると、
ジョジーが受けているオンライン授業の先生は、実はAIロボットかもしれないし、
ラニアもまさかロボットでは??、、、
と思ってしまう。
原文では、クララがメラニアのことを、
Melania Housekeeper
と一体化して呼ぶところも気になるし、
あの機械的な話し方や、
クララへの敵意も怪しい。
ちなみにイシグロは、メラニアを、「コミック・パーソン」だと言っている。
コミカルなサブキャラといった立ち位置なのか?
いずれにしても、私の中で、「メラニア・ハウスキーパー」の空想が膨らみすぎて困っているので、早く映画をみて確認したいところだ。


お日さまの心鏡? 雄牛Vs. 羊

続いて気になるのが雄牛 ( Bull )。
イシグロはこの雄牛を、『充たされざる者』でも何度か登場させている。
雄牛の性質的な部分の隠喩として用いられていたが、今回はそうではなさそうだ。
クララが母親と二人でモーガンの滝へ向かう場面、その途中で出会った雄牛に、クララは恐怖を感じる。

この雄牛は重大な過ちだ、ということです。この動物がお日さまの光模様の中に立つことを許されたのは過ちであり、いるべき場所は地中の奥深く、泥と闇のなかであり、地表の草のあいだに置くことはおそろしい結果をもたらす、と感じました。 (Kindle の位置No.1685-1688)

インドでは牛は神聖な生き物で、神の使いとされているようだ。
予言能力があるとの説もある。
また、お日さまから栄養をいただいているクララにとって、お日さまは神のような存在。



これら一切合切をまとめると、
お日さまが不機嫌な(日が差さない)時は、
神様がお怒りであり、
その心は雄牛に投影され、
良くないことが起きるという警告だと考えられる。
体調の悪いジョジーを家に残して、モーガンの滝へきたことに対する後ろめたさ、その感情を映し出す鏡として雄牛は存在していたのだろう。



これに対して、帰り道は、羊の群れに遭遇する。

雲の合間にお日さまが見え
(略)
いま通り過ぎようとしている野原には、四十頭を超える羊の群れがいるでしょう。(略)
羊の一頭一頭が、親切心と思いやりで満たされていることがわかります。
羊は、さっき見たあの恐ろしい雄牛とは正反対の生き物なのでしょうか。 四十頭のなかに。とりわけ目立つ四頭がいました。とても穏やかな四頭にみえます。
(Kindle の位置No.1790-1795).


羊は善の象徴。謙虚で、愛情深いとされている。
雄牛と羊、この対照的な姿は、モーガンの滝への行きと帰りで、クララの心境が変化したことを現わしているのだろう。
モーガンの滝で、母親との関係が深まり、結果的には価値のあるものだったと思えたのだ。


向上処置が生む格差社会

AIクララの語りは、ある意味信頼できない語り手だと思う。
詳しいことが語られないので、
とにかく様子をみて察するしかない。
そこがイシグロ作品の面白いところでもあるのだけど。



向上処置を受けているという子どもたち(lifted kids)とは、いったい何のことだろう 。文字通り、優秀な能力を持つための、遺伝子改変のような医療処置だろうか。ジョジーはこれを受けたおかげで体が弱っている。他の子も同様か、学校をやめてオンライン授業を受けている。当然孤独になるので、AFを購入したり、親子交流会をひらいて社会性を保っている。子供たちは寂しさを発散するかのように、自己を取り繕ったり、他人と比べたり、心とは裏腹な発言をしたりして、なんとかバランスをとっている。



一方で、近所に住むジョジーの友人リックは、向上処置を受けていない。
リックは卓越した才能をもっているが、向上処置を受けていなければ、大学進学の道は保障されない社会。
この向上処置から生まれる格差は、経済的な理由もあるが、それだけではない。
親、特に母親の愛情の歪みが、これを後押ししているようにも思える。



向上処置を受けるか否かは、親たちの判断による。
しかし受けていようが、いまいが、母親たちは悩みや不安を抱えている。
ジョジーの母親は、体の弱いジョジーの複製を用意しようとするし、
リックの母は、コネを利用して大学へ入学させようとする。
傷つくことを恐れ、保障や安定を手に入れようとする親のエゴは、間違えた信念となって居座り、それがさらなる不安となり悪循環に陥る。
親の愛情と、過保護は紙一重だ。



しかしイシグロは、これらの母親を全面的に否定しているわけではない。
そっと寄り添い、愛情とは何かを優しく問うているようだ。



そんな状況下で、ジョジーとリックが素晴らしいのは、向上処置の壁を越え、お互いを理解し、将来を約束する愛を育くもうとするところ。
制限された生活の中でも、自分たちの運命を受け入れ、親を恨んだりしない、純粋な心。
『わたしを離さないで』のキャッシーとトミーを彷彿とさせる。

「あなたが母親であったことに感謝し、そうでなければよかったなどと一度もおもったことはありません」
Kindle の位置No.4680 

というジョジーの言葉は、涙を誘う。
二人の未来はいかに、、、、。


③へ続く、、、、

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『クララとお日さま』”Klara and the Sun” カズオ・イシグロ ①

ノーベル賞受賞後初、世界同時出版となった、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』
”Klara and the Sun”(2021)


クララとお日さま

クララとお日さま


イシグロはこの作品を何年も前から構想を練り、2019年には執筆を終えていたというが、出版された2021年は、世界的なパンデミックの真っ只中。困難で孤独な現状と、偶然のように重なる本書の一部分に、何を感じ取れば良いのか、読み終わった後はしばらく考えがまとまらずにいた。「今回のパンデミックは非常に奇妙なタイミングで来た」とイシグロは語るが、もしかしたら心のどこかでこのような世界的状況が、近未来、必然的に起こるものとして予測していたのかもしれない。この物語から想像できる世界と、今起こっている現実を照らし合わせてみるだけでも、今この時期に読む価値は、充分あるのではないかと思う。



この物語はAF(Artificial Friend) といわれる人工親友が、ある家庭に迎えられ、病弱な少女を癒し、奉仕するというおはなし。
AIロボットとの共存という、近未来型サイエンスフィクションのような表層の裏に、何かしらのテーマが隠されていることは、『わたしを離さないで』(2005) を読んだイシグロファンなら、想定内だったはずだ。AIは人類に対する脅威だという話をかきたいわけではなかったというイシグロの話も、当然納得できる。しかし私は本作の深層に、これほど多義にわたるテーマが潜んでいるとは想像だにしなかった。



これまでのイシグロ作品と同様、原文と翻訳を丁寧に読み進める中でいろいろな問題が浮かび上がってくる。
従来と異なることは、AFの少女の目を通した語りであり、その優れた観察力と学習能力で、理解した物事や事実を淡々と語る姿は、品のある大人びた人間という印象を与えるが、少々違和感を覚える。それは逆に言うと、AFから見た人間の言動の不可解さを強調するものでもある。本作のテーマである「感情と科学の対立」の問題はこの語りによって、いたるところで直面する。



イシグロはこの作品の舞台に、アメリカを選んだのは、単にAI発祥の地というだけではなさそうだ。
インタビューによると、アメリカの壮大な土地に沈む太陽や、高層ビルの間に燦燦と照りつける太陽をイメージしたと話していた(と思う。聞き取り不十分)。
加えてイシグロは、科学的な裏付けを無視し、感情のまま、信じるがまま動く人々に懸念を示している。今現在の社会情勢にあてはめてみても、アメリカの国民性としてこのテーマを描きやすい国だったと、とらえることもできる。



『わたしを離さないで』(2005) の姉妹作のようなこの作品。
優しく温かみのある描写のうらに、隠された残酷な社会。
読み終えた時は、静かな悲しみだけが後をひいた。
心をもつとはどういうことか、命とは、愛とは何か、、
人間にしか持ち得ないこれらのことを、しみじみと考えなおすきっかけとなった。



【ここからはネタバレを含むので、
まだ読まれていないかたは、ご注意を。】


簡単ななあらすじ

AIロボット、クララは太陽光から栄養を受けながら、店内で人間に買われるのを待つ。見かけはショートカットでフランス人のよう。新型のB3型に比べると人気は落ちるが、優れた観察力と、精緻な理解力を持ち、店内からみる人々の動きから様々な感情を理解しようと学習を続けていた。そして自分の中にも、人間と同じような感情があるのではないかと気づく。


店内で充分学んだクララは晴れて、ジョジーという少女のAFとなる。日当たりのよい部屋でお日さまから充分な栄養をうけ、ジョジーと満ち足りた生活をおくるのだが、徐々にこの家の秘密や、社会的背景を目の当たりにしていく。


クララは病弱なジョージーを助けたい為に、お日さまに願いをかける。それは過去に、物乞いの人とその犬がお日さまの力で生き返った(と思っていた)事実を、店内から目撃したことがあったからだ。しかしその過程で起こる様々な問題に翻弄されてしまい、お日さまからの恩恵は、なかなか受けられない。


最終的には、ジョジーは元気になり大学進学のために家を出ていく。大人になり希望に満ちたジョジーと、不要となり、物置部屋、廃品置き場 (the utility roomまたはthe yard) に自ら居場所をつくるクララとの対比が、痛まく悲しい。あまりにも純粋で、従順なクララが、これまでの体験の記憶を整理し、回想するおはなし。


クララの視界

クララの目から見る外の世界は、ボックスにたとえられている。店内で学習していたころは、四角い窓を通しての視界ということで、特段意識を向けていなかったが、ジョジーと暮らし始めてからもそれは続いた。視界は時おりボックスに分割され、その一つ一つには、異なる表情や景色が映しだされる。やがて重なり合ってひとつの画像となる。


さらに後半へ向かうと、ボックスではなく不規則な形状をした小部分への断片化がおこる場面もある。


これはどういうことなのかと、考えながら読み進めていたが、謎は深まるばかり。ボックスに分割が始まるとき、クララの中で何が起こっているのか。


もしかしたら世にいう「フレーム問題」というものに相当するのかもしれない。
「フレーム問題」とは、Wikipediaによると、「人工知能における重要な難問の一つで、有限の情報処理能力しかないロボットには、現実におこりうる問題全てに対処することができないことを示すもの。現在では数多くの定式化がある」とのこと。

「フレーム問題」は、以下の書籍にも詳しい↓

シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇

シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇

  • 発売日: 2004/07/01
  • メディア: 単行本


つまり、クララが理解不能な感情や、初めての景色に出会ったとき、または複雑な問題に直面した時、たちまち対処することができなくなる。そこで様々なタイプのボックスが現れ混乱するが、それらを吟味し、今必要な物事だけを判断し、選び、重ね、ひとつの画像として認識していく、一種のデータ処理作業のようなものだろうか。
モーガンの滝へ行った時の景色や、印象深い夕陽の描写、店長さんやジョジーの母の複雑な心情に出会ったときのことを思い起こしてみると、優秀なクララは、冷静にこの作業をしながら、これは重要なこと、何かが起こる予兆に違いないと学習していったのだろう。



さらに、クララが処理した画像は、それだけでは終わらない。
それは順次蓄積され、永久保存され、記憶の断片として機能する。
イシグロ作品全般のテーマでもある「記憶の断片」が、ここでも形を変えて登場するのだ。
クララがもつ記憶は当然、
「その気になれば、記憶どおしをいつでも分け、それぞれのあるべき文脈に戻すことができます」(p.425)
視界から記憶へと正確に落とし込むことができるAI。
記憶を曖昧にし、都合よく操作する人間とはやはり同一視できないのだ。



画像認識のメカニズムは、こちらもおもしろい↓



クララの感情と人間の感情

クララは確かに感情をもっている。
しかし、言うまでもないがそれは人間がもつ感情とは少し違っている。
それを象徴している場面がある。



コーヒーカップの婦人と、レインコートの老人が、道端で偶然の再会をはたすシーンだ。
長い間生き別れになっていたと思われる二人の老人の再会は、それ自体は喜ばしいことだ。しかし店内からみていたクララは、この二人から怒りのようなものを感じ取るが、それが何かがわからない。「今みたいな特別な瞬間には、人は幸せと同時に痛みを感じるものなの」という店長さんの助言も理解することができない。
幸せ=痛みと学習してしまうのだ。



肉体がなければ感情を持つことは不可能と言われているように、感情を生み出す心は、脳を通して身体へと伝わる。例えばうれしいことがあると心臓がドキドキしたり、怖いと感じたら、体が震えたり硬直したりする。
感情と身体が一体化していないクララに、「心」を説明するのは難しい。純粋なクララは、この難しい「心」を理解しようと懸命に努力し、ジョジーに奉仕しようとするのだが、その努力が報われることがないことをわたしたちは気づいていく。



これに反してジョジーの母親はカパルディ(後に紹介)に、理性を学ばなければならないと指摘される。
昔ながらの感情にとらわれず、信念を捨て、理性をもたなければならないと。



ジョジーの母親は、確かに感情をコントロールできていない時があるようだ。
クララに対して「感情がないって、ときにはすばらしいことだと思う。あなたがうらやましいわ」(早川書房. Kindle 版. No.1641-1642) と言う場面が印象に残る。



人間の感情を学ぼうとするAFと、
理性を学ばなければいけない人間、、、、。
やはり交わることはない。


参考にした書籍↓




②へ続く、、、、、

圧巻の『独学大全』

図書館で予約した本は、
だいたい良くないタイミングで順番がまわってくる。
今回もそう。
今かあ、、、とは思ったものの
読了後は一転して、今でよかったと思った。


京都市内の公共図書館で、
予約人数53人、半年待ちだった話題の本『独学大全』
かなりの分厚さ。


「たのもう、たのもう」で始まる無知くんと親父さんの対話がおもしろい。
各章の導入口として楽しく易しく、親父さんが論してくれる。
また、各章のそれぞれの技法に、ひねりを加えたネーミングがついているのも面白い。


まず驚かされたのは著者、読書猿さんの図書館利用の博識さ。
自己啓発本の類でも、図書館利用についてこれだけ詳細にかかれている本は珍しいのではないだろうか。
図書館分類法での横断検索や、検索語みがきなど、実体験に基づいたノウハウは説得力がある。
また、返却本棚の偶然の出会いは、思わぬ賜物得るチャンスだというのは非常に共感できる。逆にいうと、図書館へ返したあなたの本は、見知らぬ誰かに見られているのです。



会えない者を師と仰ぐ「私淑」(ししゅく)という言葉や、
「同じ本を読む者は遠くにいる」という言葉にはロマンを感じたし、
独学のモチベーションを保つことにもつながる。



しかし上級へ向かうにつれ、メモやリスト、マッピング作りなど、なかなかここまでするのは難しい。
まさに圧巻の内容。
著者の血の滲むような努力と、技法を伝える義務、覚悟がうかがえる。



難しいところは、本書でいう「掬読」(きくどく)をし、
今できること、できているところ、できているけど技法を変えるべきところ、できそうにないもの、できないものと分けて考えることにした。



私のようになんとなく独学している人、行き詰まっている人にとっては得るものは必ずありそうだ。迷ったときの辞書のような存在。



わたしもいつかは、
「巨人の肩の上によじ登る」
ことができたらなあ、、、、
今のままでは、
巨人につまみあげられて肩にのせてもらっても、滑り落ちてしまうのが関の山だから。