Ranun’s Library

カズオ・イシグロ文学とその周辺のあれこれ

図書館の小窓から~雪~

昨日、京都市内は雪がしんしんと降り続きました。


朝、大学内に一歩踏み入れると
異国情緒たっぷり。

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まだだれも踏んでいない雪を踏みしめながら歩いていると、
見たことない光景がそこに!

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放置自転車の上に積もった雪、
トイプードル?、羊の群れ?、麒麟?、竜?
様々に見えて
ファンタジーワールドが広がっていたのです。
朝からちょっと嬉しい気分になりました。


図書館の窓から眺める雪は、また風情があります。
地下にあるのに、地上と吹き抜けになっていて、閲覧室は窓も多く明るいのです。
大きくてフワフワの雪が舞い降りてくる。

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図書館にくる学生さんは、試験前の課題に熱心、、、
に見えますが、、、、、


コロナ禍で疲弊した彼、彼女たち、
怒りや不安を思いっきりぶつける場所は、あるのでしょうか。
雪という灯に、少しでも心が癒されますようにと願うばかりです。

父と子と聖霊の物語『クララとお日さま』カズオ・イシグロ

『クララとお日さま』は、カズオ・イシグロのこれまでの集大成のような物語だ。


AIクララは、使命を果たし終えたあと、過去の記憶を整理し、ゆっくり身を引いていく。
その儚さは『わたしを離さないで』のキャシーのようだし、


主人のためなら、私的感情を脇に置いて忠義を尽くそうとする姿は『日の名残り』のスティーブンスに似ている。


悪と戦うためなら、わが身を犠牲にしても盲目的に突き進むとこころは『わたしたちが孤児だったころ』のバンクスのようだ。


リックとジョジーに永遠の愛を確かめるところは『忘れられた巨人』の船頭さながら。


物乞いの人とその犬は『充たされざる者』のブロッキーと愛犬ブルーナの亡霊だろうか。


亡くなったジョジーの姉は『遠い山並みの光』の景子かもしれない。


不器用だが信念を貫こうとするリックは『浮世の画家』のカメさんのようだ。


若干こじつけ感も否めないが、勝手に空想するのは面白い。


そして、これら歴代の作品に必ず登場するのが「太陽」
夕暮れ時の描写や、光と影など、表現方法は様々だが、


その「太陽」が、最新作ではついにタイトルとなって君臨した。


クララは、お日さまから栄養を得ているので、神様のように崇めている。
AIにも信仰があるのかという問いが、徐々に浮かび上がってくるが、クララのひたむきな行動を目の当たりにすると、自然とそれを受け入れている自分がいる。


お日さま、どうぞジョジーに特別な思いやりを」と願う純真なクララは、お日さまに捧げものをすれば(神からの)報酬があるはずだと信じてやまない。あの物乞いの人とその犬を、お日さまが生き返らせたのだから、、、、。


この物語はお日さま(神)が他にも様々に形を変えて現れている。


たとえば、時々クララの視界に映る「光模様」は、神様からの何かしらのメッセージだと考えられる。また「雄牛」や「羊」もクララの視界に入ってくるタイミングから察するに、神様の心情の投影なのだろう。牛や羊は旧約聖書において、神聖な動物としてしばしば神に捧げられていた。特に牛は人の罪を背負う動物とされていたから、モーガンの滝へ行く途中でクララの目に映る牛は、意味深長である。


さらに聖なる数「3」が多用されているところも、注目すべき点だ。
「3」は、三位一体、神の世界を表す数である。
ざっと挙げてみても、作中これだけ登場する。


三枚のパネル
三本の煙突、三つの煙
三つの草原
三個の箱
三段目の棚
三度目の声
三つの頭
三角形
三体
三番目のボックス
三番目のテーブル
三番目の人
三歩後ろ
三人のおまわりさん
三人の新型
三日目
三週間
三か月
三晩
三期に分ける
三脚のスツール
三文字
三階下
三車窓
三分の一
指を三本
一度に30分まで
真ん中の三個
ジョジー13歳
B2第3世代


ただし、これらはクララの視点での数の数え方だということを忘れてはならない。
たとえば「3つの草原」とは、草原にある杭を境界線とみなし、3つの区切られた草原に写っているというわけだ。


3という数字はまた、三位一体を物語っている。


三位一体とは、父と子と聖霊、または魂、精神、肉体を表すこともあるが、別々の3つのものが心を合わせてひとつになる、という意味もある。
病弱な少女ジョジーが、あの日、奇跡のように元気になったのは、
お日さまと、クララと、超自然な何か、の三位一体の賜物だったのだろうと想像する。
父と子と聖霊の物語。
再読して、また新たな感情が湧きました。
切ないけれど、温かい、
繊細で美しい、友情と愛情の物語です。


真面目なのはこちら↓
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『魔の山』のハンスと『充たされざる者』のライダー

トーマス・マンの『魔の山』を読みました。


本書は、難解で長い!と言われているドイツの古典。教養小説です。
(原題 Der Zauberberg ,1924)
読み始めはどんどん引き込まれていくのですが、下巻に入ってからは、やはり難解すぎて、私の浅い読みでは、この人達はいったい何の議論をしているのか、よくかわからなくなってしまいます。すぐに意識が飛んしまう状態でしたが、なんとか読み終えました。


そんな難解な部分の解釈は、いつの日かチャレンジすることにして(しないかも)、
今回は「なんだろうこの既視感」について記したいと思います。


なんだろうこの既視感。


随所にチラつくのが、
カズオ・イシグロの『充たされざる者』。


とくに上巻を読んでいると、もうこれは、


そろそろツッコんでもいいですか?


と言いたくなるところも、
とてもよく似ているのです。


たとえば、
出会う人出会う人、とにかくよくしゃべる。
エレベーターのなかで話し続ける人、
独自の哲学理論を永遠と繰り広げる人。
話がかみ合わない人たち。
個性際立つ人たち。
そんな人たちの話を、黙って最後まで聞こうとする律義な主人公ハンスは、『充たされざる者』のライダーそのもの。


時間の流れが遅すぎるのも似ています。
魔の山は独特の時間の流れがある。
たくさんの人に会って、話をしたのに、まだ一日しかたっていなかったり、時間が止まっているかのような感覚になる。
「いったいどの器官が時間をとらえるのか」と、主人公ハンスも、時間の概念に独特の考えを持ち始めます。


さらにハンスは、魔の山に到着後、すぐに体調の変化に気づいていたのに、なかなか休ませてもらえない、というか休もうとしない。熱っぽいのにそのまま2週間以上放置する。ライダーが、あらゆる人に翻弄され、なかなかピアノの練習ができないまま、演奏会当日になってしまうのと同じだ。


いいかげん熱を測って、医者に診てもらってはどうですかね~、
と言いたくなります。
これは後からわかることですが、この時代の検温というのは、数分かけて舌で測定するというかなり大掛かりなものだったのです。


とはいえ、明らかに熱があるのに、医師に診てもらおうという考えには及ばず、わざわざ毛布を2枚買いに行き、それに上手く包まる技術を教わり、練習するのです。自分の身は自分で守る正当な行為ですが、


そんなことしてる場合ではない!


やっと医師に診てもらうも、
「風邪など、ここでは戯言だ」とか、
「いっさいの病気は、変装した愛にほかならない」とか
「病気の症状は仮面をかぶった愛の活動」だとか、
「病気は人間を高尚に賢明に特異な存在にする」
「病気で無知は悲惨そのもの」などと言う人達がいる。


難解だ。


ハンス自身あまり理解していないところが、せめてもの救い。


また、気になるのは、従兄弟と二人で大笑いする場面が何度かあるのだけど、笑いのツボがよくわからない。


この物語は、主人公の青年ハンスが、結核で療養している従兄弟を見舞いに、スイスの高地ダヴォスにある国際サナトリウムに、三週間の滞在を予定してやってくる。しかし自身も結核にかかり約7年の年月をここで過ごすことになる。そこでさまざまな人生経験を経て「自己」を形成していくお話です。最後は地上に降り、ハンスが第一次世界大戦に出兵し、戦地にいるところで終わる。


療養中の人びとは、治る見込みのない病と闘ってはいますが、おいしいものを食べ、よく休み、優雅に暮らしています。「魔の山」というと、どうしても「悪魔の山」というイメージが強いですが、英語タイトルは”The Magic Mountain”なので、「魔法の山」「ファンタジー」に近いのでしょうか。


いずれにしても、この物語はドイツ文学最高峰と言われ、当時の歴史や思想の背景が絡んでいると思われるため、再読する際はもう少し真面目に読んでみようと思う。そしてハンスとライダーの心理的共通点を、もう少し探ってみたい。


ライダーの訪れた町は、この山から近い気もする。
それは魔法の町ではなく、悪夢の町だったけれど。


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カズオ・イシグロ、アンジェラ・カーターを語る ”kazuo ishiguro new critical visions of the novels” より

2011年イギリスで出版されたカズオ・イシグロ論考集。
Kazuo Ishiguro : new critical visions of the novels /
edited by Sebastian Groes and Barry Lewis



本書は、国際色豊かな18名の研究者による『わたしを離さないで』までの各作品の論考と、セバスティアン・グロースによるカズオ・イシグロへのインタビューが綴られています。


インタビューでは、故アンジェラ・カーターさんとの関係性について、多くを語られています。カズオ・イシグロの若かりしの頃の背景がよくわかる内容です。また、柴田元幸氏による翻訳の論考が興味深かったので、一部抜粋して記しておこうと思います。

インタビューより

(2009年9月11日にカズオ・イシグロ氏のロンドンの自宅で行われたもの)

カズオ・イシグロにとって指導者であり、生涯の友でもあったという作家アンジェラ・カーター(1940-1992)。彼女は2年間日本に住んでいたこともあり、意気投合したとのこと。娘のナオミさんも彼女の作品を読んで育ったそうです。


以下拙訳↓

カズオ・イシグロ:私は初めてアンジェラ・カーターに会ったとき、彼女のことを知りませんでした。当時アンジェラは、ほぼ無名の作家でしたので、彼女のことを知っている人は限られていました。彼女の本を探すのは大変でした。なぜなら、ハードカバーで発売された本は絶版になってしまうからです。ペーパーバックにもなっていませんでした。


それは1980年の春、彼女が日本から帰国したばかりの年でした。彼女にとって日本は、作家として、人として、非常に重要な国だったと思います。彼女は、私のもうひとりの指導者マルコム・ブラッドベリとは一線を画していました。ブラッドベリは大学の教授で、小説家でもあり、テレビドラマの脚本家でもありました。一方アンジェラは、世界中を転々としたギリギリの生活をし、誰にも出版されないようなものを書いていました。今、彼女がこれほど崇拝されるようになったのは、ある意味奇妙ではありますが、彼女が書いたものを見れば当然のことだと言えます。アンジェラは、当時の女性作家の中では異色の存在でした。エドナ・オブライエンのような、現代に通じるリアリズム作品が優れているとみなされていた時代でしたから。


セバスティアン・グロース:カーターが日本に興味を持ったことで、お二人はすぐに意気投合されたのではないでしょうか?


カズオ・イシグロ:そうですね、最初から絆はあったと思います。クラパムにある彼女の家で、他愛のない会話をしていました。当時、私は駆け出しの作家でしたが、私が興味を持ったことは全て、彼女がすでに探求していました。日本の文化、文学、映画、習慣などがイギリスと違う点について話しました。アンジェラは日本に魅了されていましたし、私は当時、日本の記憶を掘り起こし、書くことに夢中でした。


私たちは二人とも、リアリズムを押し進めること、あるいはリアリズムに代わるものを見つけることに興味があったのです。私はずっと、自分が書いているものを彼女に見せていませんでした。彼女がUEAイースト・アングリア大学に来た時は、私の初期の短編小説が『Introductions 7: Stories by New Writers』(1981) に掲載されることになっていましたから。


リアリストの関心をどの程度満たすべきか、というような話をしたのを覚えています。たとえば私のある短編小説について彼女は、このキャラクターは語り手なのに、家族について何も触れていない、それは問題ではないのかと指摘しました。リアリズムでありながらリアリズムではないこと、何ができて何ができないのか、背景の情報を与えるか否か、どこまで読者がついてきてくれるだろうか、読者の期待を裏切ることは許されるのだろうか、ということをよく語り合いました。


セバスティアン・グロース:批評家は、あなたの作品にはゴシック的な要素があると指摘しています。初期の作品では、主人公が過去の亡霊に悩まされています。『The Remains of the Day』(1989) のカントリーハウスの描写は、少しゴシック的だと感じることがありますし、『Nocturnes』(2009) では、ヴェネツィアを死と関連する場所として表現し、文学的伝統に通じているように思われます。このようなゴシック的な要素は、カーターの影響ですか?


カズオ・イシグロ:そうは思いません。むしろ私の作品にはゴシック的要素が全くないと言っても過言ではありません。アンジェラ・カーターのような詩的でロマンティックな要素もありません。


『A Pale View of Hills』や『A Family Supper』(1983) をかいた初期の頃は、超自然的なものへの憧れがありました。しかし、それは日本の不気味な超自然現象であり、ゴシックとは異なるものです。表面は穏やかだが、その下に感情があるという控えめな表現を目指していました。


(略)私はアンジェラを作家としても、人としても、敬愛していましたが、彼女の書くものから直接的な影響を受けたとは思っていません。書くことについて考える上では、常に大きな影響を受けていたと言えますが。


(略)彼女は作家になるために必要なことをたくさん教えてくれました。亡くなるまでずっと、私のメンター的存在でした。また、エージェントのデボラ・ロジャースや『グランタ』誌にも紹介してくれました。文芸誌『バナナ』のパーティにも誘ってくれました。彼女からは、文化人に対してどのように振る舞うべきか、どれだけ真剣に相手と向き合うべきかなど、さまざまなことを教わりました。

柴田元幸氏による翻訳のお話

( "Lost and Found: on the japanese translations of kazuo ishiguro " by Motoyuki Shibata より)


柴田元幸さんは、カズオ・イシグロの短編『日の暮れた村』(2001) を翻訳されたかたですが、さまざまな場で、イシグロ作品の翻訳について述べられています。特に日本を舞台とした作品の「逆翻訳」の問題や、言葉に隠された、感情的な距離の取り方については、非常に興味深いです。


以下拙訳↓

カズオ・イシグロの小説を日本語に訳す場合、特に日本を舞台にした文章では、いくつかの問題に直面する。


例えば『A Pale View of Hills』は、1940年代後半から1950年代前半の長崎というよりも、その時代を描いた小津の日本映画を基にしているので、舞台の翻訳は一筋縄ではいかない。訳者によると、イシグロからの依頼のなかには「人名に、ある漢字を使わないでほしい」というものもあったそうだ。英語で書かれた日本の小説は通常、名前はカタカナで表記することが多いが、そうではなく、漢字を使うことを想定されていたことがわかる。


日本以外の小説にも困難がある。たとえば『The Remains of the Day』では、ベッドで横になる父親を前に「お父さん」と何度も呼ぶ異常さは、スティーブンスの心の距離、より正確に言えば、自分と父親(あるいは他の誰とも)との間に心の距離を置かざるを得ない抑圧的な感情がよく表れている。日本語の翻訳者は、’Father'を父と、'you'をあなたと、単純に訳すと厄介なことが起こる。


日本人の感覚では、面と向かって父を「お父さん」と呼ぶのは、まったく普通のことであり、まるで父がそこにいないかのように聞こえることはないだろう。『The Remains of the Day』の翻訳者、土屋政雄氏は「父」を単に「父」と訳している。そのため、スティーブンスの父親に対する奇妙な話しぶりが、奇妙ではなくなってしまっている。しかし土屋氏は、Fatherという単語をやたらと繰り返すことで、スティーブンスが父親と感情的なつながりを持てないことを、皮肉を込めて表現しようとしたのかも知れない。ただ、原作を知らない読者には、その意図は伝わらないだろうし、単に「父」が過剰に登場するとしか感じられないだろう。


しかしながら、このわずかな問題が、作品全体を損なってしまうことがないのは、本作があまりにも優れた小説であり、あまりにも優れた翻訳者であるからと言えるだろう。


一般的に、言葉の丁寧さは親密さではなく、距離を生み出す。丁寧に話すことで読者と距離を置き、自己を語ると同時に、抑圧された感覚を生み出す。スティーヴンスも『Never let me go』のキャシーも、礼儀正しい話し方が、他者 や過去との感情的な距離を強調している。特にスティーブンスの場合は、自分自身 からも距離を置いている。彼は自分自身に感情移入する術さえ知らないのだ。したがって、イシグロの翻訳者は、あまりに生き生きとしたものにならないようにしなければならない。


こうした距離によって、語り手が他人や自分自身と感情的につながることができないからこそ、この2作品は感動的なのである。これこそが真のイシグロマジックである。

『忘れられた巨人』カズオ・イシグロ    <創作裏話>

カズオ・イシグロ忘れられた巨人』は、すでに様々な版がありますが、この装丁も私のお気に入りです。


聖杯をイメージさせる表紙と、両見開きにある画に、未知なる世界が広がっています。



それは、この動画の後半で観ることができます↓


www.youtube.com



忘れられた巨人』の制作裏話は、動画もたくさんありますが、今回はそれらが記された書籍を5つ紹介したいと思います。
前作『わたしを離さないで』から10年後の出版。その裏に、どのような道のりと思いがあったのでしょうか。


まずはこちらから

1.

ことの始まりは1999年、アウシュビッツ強制収容所跡を見学したことに端を発します。当時の瓦礫をそのまま残しておくのか、博物館のような、環境の整った施設で保存するべきなのかというジレンマを感じたこと、その他『忘れられた巨人』までの作家の道のりが詳しく書かれています。



2.

(2015年6月8日、東京イイノホール忘れられた巨人』刊行記念トークイベントから)

その後、ユーゴスラビアが崩壊しボスニアコソボで惨事が起きたこと、またルワンダでも同様なことがあったことににショックを受ける。忘れたほがいい時もあれば、隠蔽してもいい時もある。争いが起きるぐらいなら、未解決のままにしておくことだってある。「私たちは何を記憶するかをどう選択したらいいのか。忘れて先に進んだほうがいいと、いつ言えるのか、、、」という問いに行き着きました。


アクセルとベアトリスの会話は『東京物語』の夫婦を意識したこと、またアーサー王伝説についても触れられています。当時のイングランドの歴史や、アーサー王伝説の知識はなくても楽しめる、アーサー王自体が、歴史的事実に確固たる根拠がないのだから、と述べられています。


3.

MONKEY Vol.7 古典復活

MONKEY Vol.7 古典復活

  • スイッチパブリッシング
Amazon
柴田元幸編集の雑誌「MONKEY」
vol.7 / FALL / WINTER 2015
カズ・オイシグロ次作を語る(翻訳者土屋政雄を交えて)
(上記同じく2015年6月8日 東京イイノホールにて第十九回ハヤカワ国際フォーラム「カズオ・イシグロ講演会」第二部に基づく)

忘れられた巨人』の翻訳者、土屋氏曰く、ひとつの主語に対して動詞が2つ出てくる文がたくさんあったという。
これは著者の意図的な仕掛けであり、当時喋っていたのは英語ではなく、5世紀ごろにブリテン島で話されていた別の言語なのです。英語が生まれる前の言語を感じさせる必要があったのです。

さらに興味深いことに、本作ではファンタジーのルールを決めていたといいます。そのルールとは、、、ほとんど現実と同じように見える超自然的な世界でないといけないということ。科学もなく迷信だけが広がっていた原始的な時代に、その存在がありえると思う生き物たちが蔓延る世界だ。事実、竜や妖精なしではこのテーマを語れなかったと振り返っている。


4.

MONKEY vol.14 絵が大事

MONKEY vol.14 絵が大事

  • スイッチパブリッシング
Amazon
柴田元幸編集の雑誌「MONKEY」
vol.14 / SPRING 2018
律義さの美徳:カズオイシグロの英語
(2017年11月26日、津田塾大学で行われた講演に基づく)

柴田氏による翻訳者からの視点。イシグロ作品全体にみられる、律義で几帳面な語りについての話題です。『忘れられた巨人』に関しては、関係代名詞を省いた欠如感が、古さや詩的な雰囲気、さらには記憶が失われたことによって何か欠けているような感覚があると述べられています。
土屋氏が指摘する、動詞が2つ出てくる箇所も含め、ここで、私なりにそう思う部分を1章から抜粋してみました。

For warmth and protection, the villagers lived in shelters, many of them dug deep into the hillside, connecting one to the other by underground passages and covered corridors. (p.4). Faber & Faber. Kindle 版.

Mostly you would have found communities like the one I have just described, and unless you had with you gifts of food or clothing, or were ferociously armed, you would not have been sure of a welcome.
(pp.4-5)

Now we’re talking about her there’s even more comes back to me.
(p.9).

God will be pleased for the kindness you’ve shown as is always your way.’
(p.18)

こんな感じでしょうか、、、、。



5.

(2007年6月2日にリバプールホープ大学で開催されたカンファレンス「Kazuo Ishiguro and the International Novel」で行われた、ショーン・マシューズによる公開対話)


長編小説7作目にして、初めての三人称の語りを採用した理由が詳しく語られています。
また、一人称の語りから抜け出そうとした理由をこう話しています。
「”The Remains of the Day”に代表されるように、一人称の語りには、語り手自から何かを隠してしまうような働きがあります。スティーブンスは不快な記憶と折り合いをつけようと必死になっていて、最終的にそれらを認めることで非常にカタルシス(浄化)が得られます。最後には自分自身について何かを理解するようになります。これは良い物語のモデルですが、年齢を重ね、自分を取り巻く世界がどんどん変化していくにつれて、違和感を覚えるようになりました。今の時代は、感情の抑圧が問題ではありません。誰もがどこでも自分の感情をぶちまけているのです。」



以上、参考になれば幸いです。
カズオ・イシグロさんの作品はどれも、読者にテーマを差し出し、議論されることを前提に作られています。『忘れられた巨人』もまた例外ではありません。「私たちは竜に生きていてほしかったのだろうか」という問いは、いつまでも尾を引き、読了後は、無性にだれかと話したくなるような、そんな作品なのです。


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