カズオ・イシグロ著『日の暮れた村』A Village After Dark は『充たされざる者』(1995) の下準備としてかかれた短編小説です。世に出すつもりはなかったというが、どういうわけか雑誌 ”The New Yorker” ( 2001.5 ) に掲載されたという謎の裏話があります。
原文はこちから無料で読めます↓
www.newyorker.com
邦訳は、以下の2冊に収録されています。
この物語は、過去にとらわれ、なにか問題を抱えている男が、イングランドのある村で時空を彷徨い、やがて去りゆくお話です。どうみても不穏な結末を迎えるのですが、その男フレッチャーはいたってポジティブ思考。未来への憧憬をもって幕切れとなるのは『充たされざる者』も同じ。フレッチャーを『充たされざる者』の主人公ライダーの前身として読むのもよし、ライダーの老後と考えるのもよし、全く別人とみるのもよし。読めば読むほど、謎が生まれてきますが、解釈は読者にゆだねるというスタンスは、カズオ・イシグロ作品の特徴でもあります。わからなさを楽しみ、さまざまに空想してみることが、この作品の醍醐味といえるでしょう。そして『充たされざる者』をまだ読んだことのない方は、是非これを機に、手に取ってみることをオススメします。
簡単なあらすじと感想
舞台はイングランド郊外。主人公フレッチャーは、旅の途中で路地に迷い込む。とあるコテージを訪ねてみると、そこはむかし自分が住んでいた家だとわかる。そしてそこにいた人たちの反応から、フレッチャーはおぼろげな記憶(過去のあやまち)が徐々に蘇ってくる。
コテージには、4人の幼馴染がいた。疲れたフレッチャーは、仮眠をとらせてもらうことに成功するが、その横で幼馴染たちがそひそと悪態をつく。どうやらそのうち一人の女性は、昔の恋人だったらしいが、フレッチャーに向け「まるで浮浪者」「汚らしいかたまり」などと言って嫌悪感をあらわにする。
具体的には明らかにされていないが、フレッチャーはかつてこの村で大きな勢力をふるっていたようだ。そして世間に与えた害の埋め合わせをするために、旅を続けているというのだ。
そんなフレッチャーであるが、村の若者からは崇拝され、歓迎されている。彼はなにか有名なグループの一員らしく、影響力のある人物のようだ。彼を嫌う人もいれば、憧憬の念を持つ者もいる。光と影が交差し、謎は膨らむばかりだ。
幼馴染たちの心配事は、フレッチャーが若者に悪い影響を与えやしないかということ。なんとか彼を引き止めなければと考えるが、悪い予感は的中し、元気になったフレッチャーは、若者のいるコテージへと向かおうとする。
ところがその道中で、ある男性ロジャー・バトンに出会う(これは重要人物に違いない!)彼は昔フレッチャーにいじめられていたというが、スポーツ選手となった今は、明らかに立場が逆転している。
いつの間にか道案内の若い女性は消えていて、途方に暮れるフレッチャーに、ロジャー・バトンが代わって道案内をすることになるのだが、、、。
彼はフレッチャーを阻止することが目的であったから、若者のいる場所へ導くわけがない。
偶然かもしれないが、このバトンという人物は「フレッチャーが次に行くべき正しい場所を案内(指示)するバトンを引き受けた人」だったのではないだろうか。
バトンは、今となってはフレッチャーを許すつもりでいるが
「君にもわかっている通り、過去のある種の物事は、結局は自分自身にはね返ってくる」
という言葉を吐く。
「因果応報」とはこのことだろう。
フレッチャーは何の疑いも抱かず、バトンに案内されるがままに、来るはずもないバスを待ち続けるのだった。
この最後の場面は『充たされざる者』と似ている。沈んだ気持ちで電車に乗った主人公ライダーは、ある人物に励まされ、最終的には希望を見出すことができる。フレッチャーも明るい未来をみようとしていたが、、、。
実際はどうだろう。フレッチャーは老いていることと、過ちをおかしたということで、もしかしたら『忘れられた巨人』のベアトリスのように、黄泉の島へ渡されるのかもしれない。
フレッチャーの行く末はいかに。
2021.3.14 記
2023.11.27 更新
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