Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『老歌手』Crooner カズオ・イシグロ

夜想曲集 : 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』Nocturnes : five stories of music and nightfall(2009) 、音楽にまつわるの大人の短編集。




5つある短編の中でも、最も切なく哀愁漂うのが『老歌手』(Crooner)。
せつなさが、時折りみられるユーモアで調和されて、長編さながらの深い余韻が残る。


27年連れ添った夫婦が、離婚前に想い出旅行をするという羨ましい?ようなお話は、ベネチアが舞台だ。


語り手でギタリストのヤンは、そんな夫婦トニー・ガードナー(老歌手)と、妻のリンディに出会う。
彼はこの夫婦間の不可解な問題に介入するキーパーソンとなる。


ヤンは母親の影響で昔からガードナーを尊敬していたこともあり、ガードナーからの頼み事を喜んで引き受けることに。それはゴンドラ(運河の船)からホテルの部屋に向けて、妻リンディにセレナーデの歌をプレゼントするため、ギターで伴奏してくれないかという依頼。


ここで面白いのは、アメリカ人のガードナー夫婦と共産国(東欧?)出身のヤンの、ちょっとした気持ちのズレだ。
妻リンディの自由すぎる発言に、ヤンは違和感を感じる。


たとえば、
ヤネクという、ヤンのあだ名を取り上げて、
「ニックネームが本名より長いんですの?」
「そんなこともあるのね」 と言ったり、


ヤンはギタリストなのに
「噓でしょう?アコーディオンでしょう?」
「からかっているんではなくて?」
などなど、国民性の違いが、この空気を凍り付かせる。
ガードナーは無礼だと妻を何度もたしなめるのだが、効き目はない。


リンディは前の夫と離婚している。
有名人と結婚することが人生の目標であるから、人気が落ちると生きる意味さえわからなくなる。
現夫ガードナーも歌手として名声を失いかけた今、別れを決断しようとしている。


そんな彼女とは対照的に描かれているのがヤンの母親だ。過去にとらわれ、悲しみを引きずっていた母はガードナーの歌を何度も聴き癒されていた。素晴らしい影響力をもつ彼の歌声は、皮肉にもリンディにはもはや興味がないというのか。ヤンは、アメリカ人のすることはよくわからないと嘆く。


ゴンドラからのセレナーデを贈る計画は、概ね成功したといえる。
ヤンのギターと、ガードナーのささやくようなハスキーな歌声が、部屋にいるリンディの心に届く。夜のベネチアの運河をバックになんというロマンテックな時間だろう。リンディは泣いていた。


「奥様が泣いておられたのは幸せからですか。悲しみからですか」というヤンの直球すぎる問いに、ガードナーはその両方だと答えた。


長年の夫婦間のもつれは簡単に説明できるものではないだろう。しかしここで過去の栄光にすがって生きるよりも、カムバックするために妻と別れを決意し、すでに若い女に目をつけているというガードナーの吹っ切れようはお見事というか、それってリンディと同じではないか!とつっこみたくもなる。


納得のいかないヤン。
夫婦愛とはいったい何なのか、名声や富は愛情を左右してしまうのか。


「互いに愛し合っているなら、永遠に一緒にいるのではありませんか」という、再び直球を投げかけてくるヤンに、答える術はもう見つからない、、、。
なんとも切ない最後だった。



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2021.3.21 記
2022.7.31 更新