Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

カズオ・イシグロ ノーベル賞記念講演『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』

カズオ・イシグロの『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』(2018) は、2017年ノーベル賞受賞後の、記念講演を書籍化されたものです。

カバーを取ると美しい装丁です。
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本を開くと、左の頁に原文、右の頁に土屋政雄雄の和訳文がかかれています。
原文と訳文の文字数がちょうど同じぐらいなので見た目にも美しい。

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一般的に、英語を日本語に訳すと日本語のほうが文字数が多くなると言われていますが、翻訳者の土屋氏は文字数をできるだけ同じ量することが理想的と話しています。


全体で99頁、その半分で50頁ほどの中に、カズオイシグロの小説家としての、これまでの道のりが濃縮して書かれています。


イーストアングリア大学大学院に入学した、24歳当時の屋根裏部屋での生活から始まり、今の奥様との関係、日本、長崎の記憶、各作品の秘話、そしてブレークスルーのことなど、興味深い内容となっています。


「文学白熱教室」で語られていた内容と重なる部分もありました。


本作でしか知り得なかったことは、
日の名残り』のスティーブンスの性質は、歌手トム・ウェイツ歌声からインスピレーションを受けていたということ。歌詞ではなく歌声なのが重要です。感情を押し殺した表情の中に、一瞬だけそれが崩れ去るような歌声。


そして『わたしを離さないで』執筆前に起こったブレークスルー(breakthrough:困難から突破すること、革新的な解決策、新たな発見などの意味)のきっかけが、映画『特急二十世紀』だったというのは驚きです。まさにターニングポイントの夜というほどの衝撃を受けたと言います。


私はトム・ウェイツも、映画『特急二十世紀』も知らないなのですが、文学以外にも音楽や映画からも影響を受けた作品があるとは初耳でした。


人は誰でもターニングポイントとなる、その人にしかわからない「啓示の花火」が静かに光る瞬間があるとイシグロさんは言います。
それはめったにあることではなく、気づかないこともある。
敏感に感じとり、啓示を得たら、その何たるかを認識することが重要なのだそうです。


私自身も、今解決したい事柄と無関係な行動をしている時に、ふと降りてきたものに、ハッとした気づきがあることが確かにあります。
人生のターニングポイントとまではいかない小さなことですが、気分転換や、視野を広く持つことの有益さがわかる瞬間です。


さて具体的にイシグロさんは映画『特急二十世紀』を観た夜を境に、何が変化したかというと、物語の組み立て方、人間関係の立体化、読者の感情に納得させる響きを持たせることだったと言います。


なんといっても私が魅了されることは、
「感情」を伝えることを重視されていることです。
「感情」は、舞台がどこであれ、同じ人間として文化的、言語的な境界を越えてグローバルに分かち合えるものだというところに、納得と感動を得ました。


60歳を超えた今、
今後の社会を見据え、最善を尽くしていこうとする謙虚な姿がとても印象的でした。
新作『クララとお日さま』が出たばかりですが、
早くも次作を期待してやみません。