Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『わたしたちが孤児だったころ』"When We Were Orphans" カズオ・イシグロ

わたしたちが孤児だったころ
(When We Were Orphans ,2000)
は、カズオ・イシグロの長編小説第5作目で、
ブッカー賞の最終候補に選ばれた作品。


本作は、カズオ・イシグロ作品の中で、
もっとも悲しくて、
もっとも泣けるノスタルジーの物語である。


主人公で探偵のクリストファー・バンクスの失ったものは何なのか、
タイトルの「わたしたち」とは誰なのか、
読むたびに違った印象をもつ。
しかし何度読んでも、
やはり悲しい物語であることに変わりはない。
なにかを諦め、なにかを手放し、
どうにか折り合いをつけながら生きていくわたしたちはみんな、
バンクスと同じ「孤児」なのかもしれない。

簡単なあらすじ

クリストファー・バンクスは幼いころ住んでいた上海で、両親が謎の失踪をし、孤児となる。故郷イギリスの叔母の家に引き取られ、やがて探偵になる。


アヘン貿易に関わっていた父と、その撲滅運動をしていた母は当然のように不仲であった。両親のことは今でも警察が懸命に捜索してくれていると信じていた。しかしその使命は、探偵である自分にあるのではないかと、意を決して上海へ戻ることに。


時は奇しくも日中戦争の真っ只中。戦禍の中、無我夢中で両親を探すが努力は無駄に終わる。そこで偶然、幼いころの友人アキラ(日本人)に再会する。彼を怪我から救ったが、再び別れ別れになる。


そしてついに、ある男から、衝撃的な事実を明かされる。

ノスタルジーとは

バンクスが、ノスタルジーに浸る場面は何度かある。
ノスタルジーとは、ある景色や行動が引き金となって、過去の美しく楽しかった記憶が呼び覚まされることである。しかしバンクスにとっての楽しかった過去は、同時にトラウマとなって苦しめてしまうのだ。


たとえば、
ロンドンの書店でチェンバレン大佐に再会したとき、
スコット著『アイヴァンホー』を立ち読みしたとき、
ロンドンの社交界で出会った女性サラと、2階建てのバスに乗ったとき、、、。


懐かしさと同時に彼を苦しめたのは、
チェンバレン大佐の心無い言葉、
中世イングランドの歴史物語をヒントにした空想劇を、おばに批判されたこと、
また、バスに乗れば、フィリップおじさんと馬車に乗った日と同様、見知らぬ場所で置き去りにされるのではないかということであった。


ノスタルジーとはもともと「nostos」故郷と「algia」心の痛みの合成語で、故郷に帰りたいというホームシックに近い意味であったという。現在の定義とされている楽しかった思い出とは裏腹に、どちらかというとネガティブな心情。精神医学からみると、一種の鬱症状や、情緒不安定をともなうものだったという。


とすると、バンクスのノスタルジーは、トラウマをともなうものであってもおかしくない。バンクスはそのネガティブなトラウマを悪と仮定し、悪と闘わなければならない=上海へ両親を助けに行かなければならないという、ある種英雄的な、空想ごっこの延長のような、哀れで幼い発想を抱くのだ。

アキラは実在したのか?わたしたちは一人?

「その男とは会わなかったな」
上海に行ったことのある人物が、バンクスの質問にこう答えた。
人口の多い上海で、特定の人に偶然会うのは奇跡に近い。
立派な成人が、しかも探偵のバンクスが、初対面の人物にアキラに会わなかったかと質問するあたりは少々疑問を感じる。


アキラはほんとうに実在したのだろうか。


日本人のアキラとイギリス人のバンクスは、お互いの国の言葉を教え合ったり、空想劇に民族性の違いを取り入れて遊んでいた。ふたりの家の間を「秘密のドア」と呼び、それぞれの領域を行ったり来たりする。どこか越えられない一線をドアに見立てるかのように楽しんでいる。


それは内面的なものにも及んでいる。強気でプライドの高い日本人のアキラと、控えめだけど重要な決断をすることの多いバンクス。違った性質を行ったり来たりすることで、孤独だったバンクスは自然と心のバランスをとっていたのではないだろうか。つまりアキラはバンクスであり、バンクスはアキラである。ふたりは一体化した、ひとりのバンクスなのではないかと考えられる。


ここで、
2人がある盗み(液体入り瓶)を犯しあと、罪の意識からパニックに落ちいり、運河の畔へ逃げ隠れるシーンを原文で見てみると、気のせいとは思えない「わたしたち」(赤字)という言葉が多用されているのがわかる。

Our spot by the canal, some fifteen minutes’ walk from our homes, was behind some storehouses belonging to the Jardine Matheson Company. We were never sure if we were actually trespassing; to reach it we would go through a gate that was always left open, and cross a concrete yard past some Chinese workers, who would watch us suspiciously, but never impede us. We would then go round the side of a rickety boathouse and along a length of jetty, before stepping down on to our patch of dark hard earth right on the bank of the canal. It was a space only large enough for the two of us to sit side by side facing the water, but even on the hottest days the storehouses behind us ensured we were in the shade, and each time a boat or junk went past, the waters would lap soothingly at our feet. On the opposite bank were more storehouses, but there was, I remember, almost directly across from us, a gap between two buildings through which we could see a road lined with trees. Akira and I often came to the spot, though we were careful never to tell our parents of it for fear they would not trust us to play so near the water’s edge.

(pp.94-95). Faber & Faber. Kindle 版.

青文字は、
「反対側の堤」「ふたつの建物」の意味で、
「わたしたち」の比喩ととらえられる。
「わたしたち」とはもちろんバンクスとアキラのことである。
ここで「わたしたち」を執拗に登場させながら、
バンクスの内にある二面性を強調し、ふたりは一体だということを暗にほのめかしているのではないだろうか。

孤児たち

イシグロは「孤児」を次のように説明している。
「私たちは成長するにつれて泡(幻想的な世界)から出なければいけないが、泡のおかげで人生の困難なことにも対応できるようになる。しかし一部の人は、このように導かれていない。そういう人たちを広い意味で、比喩的に孤児状態と呼ぶことがある」


また、このような親に守られて過ごす時期を、bubble (泡) 防護泡とよんでいる。


バンクスはその泡(幻想的な世界)から抜け出すことができずにいる一人の青年なのである。のちに真実を告げたフィリップおじさんの言葉がそのことを意味する。

きみがどのようにして有名な探偵になれたかもわかっただろう?探偵とはな!そんなものが何の役に立つ?(略)きみのお母さんは、きみに永遠に魔法がかけられた楽しい世界で生きてほしいと思っていた。しかし、そんなことは無理だ。結局最後にはそんな世界は粉々に裂けてしまうんだ。きみのそんな世界がこんなにも長く続くことができたななんて奇跡だよ(p.498)


このように、泡から出ていいかげん現実をみるべきだと忠告を受けたことによって、バンクスに少しずつ変化が現れる。


悲しいけれど、過去は取り戻すことばできなかった。
盲目の俳優と化して、上海の戦禍の中、アキラと一体となって悪と戦ったけれど、母はいなかった。
空想劇はやめて、泡から出なければいけない時が来たのだ。


奇しくもアキラ(もう一人の自分)から聞こえてきた言葉は、
「もう空想劇を維持すべきでない、君は間違っている」だった。


20年後、母と再会を果たすが、老いた母はバンクスを認識できない。
しかし今でも息子を愛し続けているのは確かであった。
そのことを確認できた今、失ったものが見つかった今、ようやく前に進むことができた。
孤児から抜け出した瞬間だった。
もちろんそこにはアキラの存在はどこにもなかった。


悲しいけれど、希望の光がわずかにさしこむような、美しい結末である。



参考文献

[asin:B093RLBMD3:detail]


ranunculuslove.hatenablog.com



2021.5.2 記
2022.7.27更新