Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『モールバンヒルズ』Malvern Hills カズオ・イシグロ

夜想曲集 : 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』(2009)
Nocturnes : five stories of music and nightfall
音楽にまつわる短編集の3つめのおはなし。
『モールバンヒルズ』(Malvern Hills)


イングランドにモールバンヒルズという丘がある。


この地でカフェを経営する姉夫婦のもとにやってきたのは、若きギタリスト。
ロンドンでオーディションを受け続けていたが、業界の現状に嫌気がさしていた。
夏の間ここでカフェを手伝いながら、曲を書きためようともくろんでいた。



こういうと、のどかで牧歌的なストーリーだと思いがちだが、若きボクの目線で語る人物描写がシビアでおもしろい。



カフェにやってくる客は個性的だ。
そのひとり「くそ婆あ」は、昔ボクを問題児扱いした教師だった。退職後、近くで民宿を経営しているというが、悪評らしい。



お次はスイスから来たミュージシャンの老夫婦「クラウト夫婦」。
ボクはこのふたつの客を、間接的につなげる役目をはたすことになるのだが、、、、、



話はしだいに「クラウト夫婦」がメインになる。
この夫婦は、どこか特異な雰囲気がある。
妻ゾーニャは、とにかくネガティブだ。
反して夫のティーロは、痛ましいほどのポジティブ思考。
当然会話は成り立たず、その場の空気は冷たい。



しかし音楽となると豹変する二人。
ボクがギターを弾いて歌えば、二人で仲良くリズムに乗り、君は才能があるとほめてたたえる。ボクはしだいに「クラウト夫婦」に心を開きだすのだが、若者らしい悪戯心がうずき出す。もう少しこの地で過ごしたいという夫婦に、あの悪評の「くそ婆あ」民宿を案内するのだ。



いったいどうなるの??
夫のティーロはやはり誉めそやすのか、妻ゾーニャは??。「くそ婆あ」の反応は?
ボクは罪悪感を感じながらも、三人のことを想像してはほくそ笑む。



翌朝、もう二度と会うことがないと思っていた「クラウト夫婦」草原で偶然出会ってしまう。
2人は別々の場所にいて、何かがおかしい。
もしかして原因は、、、
ボクは再び罪悪感にかられる。


しかし「くそ婆あ」民宿は、問題の一部にしかすぎなかった。問題は夫婦間の長年のウミだった。音楽だけでつながっていたような二人(それも素敵)だけど、うまくいかないこともある。この日も、この素晴らしい丘を絶賛し妻と共有したかったのに、「そんなのただの公園よ」と言われ絶句する夫。



ついに糸が切れたのだ。あのポジティブさはもう消えていた。



わずかな光が見えた若者と、光を失った老夫婦が対比的に映る。



モールバンヒルズは、作曲者エドワード・ウィリアム・エルガーのゆかりの地でもある。
エルガーといえば「威風堂々」が名曲だけど、このお話にでてくる美しい丘や、どこまでも続く草原、そして静かな調べは「エニグマ変奏曲」がほどよくマッチするなあと感じた。



追記:とあるインタビューで、この作品は、ミュージシャンになりたかった頃の著者自身のお話ですか?という質問に対して、イシグロはさんは、きっぱり「ノー」と言っています。自己中心的な若者が、人生に向き合う上で、どのような戦略をとるべきか。また、失望したときにはどのように対処すればいいかということを書きたかった。また、スイス人夫婦などのさまざまな人生モデルを見ることで、人生は思い通りにはいかないことを学ぶお話だと述べています。


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