Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『日の名残り』”The Remains of the Day” カズオ・イシグロ

日の名残り』(The Remains of the Day, 1989 )は、カズオ・イシグロの三作目の長編小説です。1989年には、イギリスで最も権威のあるブッカー賞を受賞した話題作。1993年に映画化されてからも、長く愛され続けています。



この物語の最大の魅力は、なんといっても老執事スティーブンスの語りにあるのではないでしょうか。彼は「信頼できない語り手」として知られていますが、そのような先入観がなくとも、いつか気づいてしまうのです。あれあれ?本当?何かごまかしてない?と。冷静沈着で、ときに滑稽なほど丁重な言葉の裏には、過去への憧憬と悔恨の念がありました。


あらすじは非常にシンプルです。
ティーブンスが休暇を取り、イングランド西部を車で旅した片道6日間の記録。
「片道」というのがポイントです。


旅をしながら、過去の栄光に想いを馳せ、執事たるものの品格と偉大さを自分自身に問い直します。そして旅の第一目的ともいえるミス・ケントンとの再会まで、彼女と共に従事したダーリントン卿時代の様々なエピソードが綴られていきます。


執事(butler) とは

執事とはイギリス発祥の職業です。上流階級の使用人のなかでも筆頭となる存在。卓越した知力、体力、そして独身であることが要求されていました。


もちろんイギリス以外でも執事は存在しますが、スティーブンスに言わせれば、
「ほかの国にいるのは単なる召使、感情の抑制がきかない人種は執事になれない
という、極端なご意見をお持ちのようです。


実際スティーブンスは、感情の抑制こそが「偉大なる執事」の「品格」だととらえています。同じく執事だった父の勇敢なエピソードを交えながら、執事たるものについて雄弁に語る一方で、非常に孤独で、狭い世界で生きてきたことが見て取れます。


その狭い世界からとび出し、旅に出たスティーブンス。最初に目にしたのは、イギリスの美しい田園風景。彼はこの風景を眺め「最良の装い」だと絶賛します。「装い」といえば、スティーブンスは旅行中でも服装に気を使います。ラフな格好ではなく、いつもの堅苦しい衣装を身に着け「偉大さ」とは、品位ある「装い」をすべきだと思っていたからです。美しい「イギリスの風景」はそのまま「偉大なる執事の品格」にあてはまるのでしょう。


ちなみに、旅行前にスティーブンスがイメトレとして読んでいた本『イギリスの驚異』シリーズ全七巻("The Wonder of England")(実在しません)は、20年も前に出版されたという設定です。美しい風景が今でも変わっているはずがないとワクワクしながら読むところにも、スティーブンスの視野の狭さがうかがえましたが、実際目にした風景に違和感はなかったのでしょうか、、、。

ミス・ケントンに会いたい!

ティーブンスは当時、ミス・ケントンにこう指摘されていました。
「なぜ、あなたはいつもそんなに取り澄ましていなければならないのです?」


旅の途中、スティーブンスはふとこのことを思い出し、数日前に届いたミス・ケントンからの手紙に想いを馳せます。そこには夫婦生活が破綻しかかっているとか、職務に戻りたいといったことが書かれていた(といいます)。彼女は夫と別れ、職務に戻りたいのではないかという憶測が頭からはなれず、この旅で彼女に会うことを決意したのでした。しかし彼女に会うのは、あくまで人手不足解決のためだと、読者に言いつくろうところが実に面白い。ミス・ケントンに会いたい!なんてお首にもださないのです。


「なぜそんなに取り澄ますのです?」
と突っ込みたくなる場面です。

ティーブンスの過ちはなにか

ティーブンスの執事としての黄金時代は、どんなものだったのでしょうか。序盤から何度か繰り返されるこの言葉、「過ち自体は些細かもしれませんが、その意味するところの重大さに気づかねばなりません」というのは、注目に値する言葉です。これは誰からいわれたのか曖昧にしていることからも、スティーブンスが耳をふさぎたくなるような言葉だということがわかります。では「過ち」とは何を意味するのか、いくつかのエピソードで暗にほのめかされているので書き出してみました。「言葉が意味を隠す」というイシグロの技法が光る部分でもあります。


エピソード①
同じ屋敷で働くスティーブンスの父(元執事)は、高齢ともあって度々業務に支障をきたしていました。ある日、踊り場にある志那人形の向きがいつもと違っていることについて、ミス・ケントンがこれは父のミスではないかと指摘。それを認めないスティーブンスとの真向対決が始まる。冷静を欠いたスティーブンスは、思わぬ発想をします。窓から逃げようか、突撃するように出ていこうか、、、。


エピソード②
ティーブンスが休憩中、純愛小説を読んでいると、偶然ミス・ケントンが部屋に入ってきて、何を読んでいるのかと聞きます。彼の手から本を取ろうとするミス・ケントンと、それに抵抗するスティーブンスとの静かな対峙。このときもスティーブンスは、突飛な発想をします。本を机に押し込み鍵をかけようかとか、逃げ道をさがしたり、、、。しかし表面上では冷たい態度で拒んだのです。


エピソード③
時代は世界大戦の狭間。屋敷では重要な国際会議がくり広げられていました。仕えていたダーリントン卿は、ナチスドイツに加担したとして非難されていました。スティーブンスは、卿がよくない方向へ流され、利用されていく過程を見聞きしていたはずですが、卿を守るため、見て見ぬふりをします。


エピソード④
国際会議の最中、スティーブンスの父が倒れ危篤になります。と同時に、ミス・ケントンから、ある男性に求婚されたことを聞かされます。職務中の私的な2大問題。激しく心が揺さぶられながらも、一貫して執事の品位を守り通そうとします。その結果、父を看取ることもできず、あわよくば引きとめてほしいというミス・ケントンの心も閉ざしてしまったのです。


これらのエピソードはどれも、スティーブンスの完全なるプロ意識から生じるものですが、やはりどこか痛々しい。偉大さや品格という「装い」の下で、私的感情を抑制するあまり、うらはらな言動を起こしてしまう。ケントンに指摘されたように「取り澄ます」こと自体が「過ち」なのか。栄光と引き換えに、なにか大きなものを失ったのではないか、些細な過ちが重大な問題を呼び寄せてしまったのではないかと、スティーブンスはようやく気づき始めるのです。


著者の思い

ティーブンスは確かに不器用ですが、感情の薄い冷酷な人間ではありません。分をわきまえ、自分の仕事に励み、ささやかな貢献をすることで、自己を確立しながら生きてきたのです。自分を守り保つために、自己正当化したり、見栄を張る行為は、人間だれしも身に覚えのあることで、国を越え、時代を超え、普遍的な人間の姿であるということを伝えているのではないかと思います。「わたしたちはみんな執事である」という著者のことばは意味深い。


待望の再会と空白の2日間

旅の4日目、ついにミス・ケントンと再会する日が訪れます。ただし、わたしたちはここで爆弾発言を聞くことになります。実は彼女と会える保証はないのです。つまり会う約束はしていないというのです。しかし会えなければ話が進みませんので、会えないはずはありません。


ここで空白の2日間をもうけられ、6日目の夜、スティーブンスが振り返るかたちで語られていきます。


20年ぶりに再会したケントンは今も美しく、丁寧で上品な話し方は決してスティーブンスの自尊心を傷つけるものではありませんでしたが、このときのスティーブンスの心は張り裂けんばかりに痛んでいました。悲しいかな、ミス・ケントンはもうダーリントンホールへ戻るつもりはないとのこと。確かにスティーブンスに思いを寄せていた時期があり、人生の選択を間違えたと思った時もあるが、今では夫を愛している、もうすぐ孫もうまれる、今あるものに満たされていたのです。


ティーブンスは笑顔でこう言います。

あなたには満足すべき十分な理由があるではありませんか(略)あなた方二人は、きわめて幸せな月日を迎えようとしておられます。愚かな考えを抱いて、当然やってくる幸せをわざわざ遠ざけるようなことをしてはなりますまい」

感動の名シーン。
心からの笑顔ではないにしても、実は笑えていなかったとしても、最後まで一貫して品位ある「装い」を脱がなかったスティーブンスは完璧でありました。永遠に結ばれない運命でも、出会ったことが尊いと感じます。「夕方(老後)は、一日(人生)でいちばんいい時間だ」とかみしめるスティーブンスは、今後の展望をジョークの練習に見出します。時代は変わってしまったけれど、ファラディ様のもとへ帰り、また新たな「装い」で貢献する人生を歩むのでしょう。


ウェイマスの桟橋での夕暮れ、スティーブンスの前向きな気持ちで物語は終わりますが、やはり気になるのが空白の2日間。彼はどうやり過ごし、どう感情をコントロールしたのでしょうか、、、。



2021.3.7記
2024.1.28更新


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