Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『遠い山なみの光』”A Pale View of Hills“   カズオ・イシグロ

遠い山なみの光』(A Pale View of Hills,1982)は、
カズオ・イシグロの長編デビュー作です。
1982年、王立文学協会ウィニフレッド・ホールトビー賞を受賞しました。


当初『女たちの遠い夏』(1984 ) というタイトルだったことはあまり知られていませんが、
個人的には、こちらのほうが好きだなあと思います。
「女たち」に内包する「母親たち」としての生き様に共感できる部分があるからでしょうか。


幼い頃の日本(長崎)の記憶を作品の中に「保存」しておきたかったという著者が、生まれる前の、みたこともない戦後の日本をみごとに「再現」した作品。英語で書かれたものを和訳されたという逆輸入のような異色さ、そして読むたびに新たな謎が生まれる、鳥肌がたつような物語です。




簡単なあらすじ

英国に住む悦子には、二人の娘がいる。
元夫との娘(景子)はマンチェスターの自室で自殺。
再婚した英国人との間に生まれた娘(ニキ)は母を励ますため帰省していた。
詳しくは語られていないが現夫は不在。
ニキが滞在する数日の間、悦子が故郷の長崎時代を回想する。

景子と万里子の混在

自殺した景子の部屋からは未だ妖気が漂い、悦子は最近よく見る少女の夢におびえていた。新婚当初に知り合った友人、佐和子とその娘(万里子)を想い出し、夢に出てくる少女が、この二人と重なるのを感じ、しだいにその夢になんらかの罪の意識を持ち始める。
しかし悦子の記憶は曖昧で、語りの過程で徐々に思い出すこともある。
たとえば夢に出てくるブランコに乗った少女をあとから訂正する。乗っていたのはブランコではなかったと。


このあと佐和子と万里子の三人で、稲佐の港からケーブルカーに乗ってお出かけしたことを回想が始まることから、少女が乗っていたのはブランコではなく、ケーブルカーだったのだろうと察しがつく。なぜかこの日の記憶は鮮明に覚えていて、万里子がくじ引き屋台(kujibiki-stand )で当てた野菜箱のことを語りだす。(この野菜箱は、後日凶器として使用されるのだ)


そして後半、悦子はこんなことをつぶやく、
「あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」(p.259)
万里子が景子に変わっているのだ。気づいた時は、ミスプリではなかろうかと疑ってしまったが、これは明らかに万里子と景子の混在が示されている部分だろう。
「空想と現実がごっちゃになっちゃうのね」(p.105)と佐和子が言っていた言葉もここで思い出され、ゾっとする。


興味深いことに、悦子が万里子をたしなめたり、彼女に対して良くない感情が芽生えた時は、呼び名が変わる。万里子(she)と呼ぶ時もあるが、「女の子」(the little girl)または「子供」(the child)と呼ぶ。日本人の感覚でいうと、親しみのある少女に対して、このように呼ぶことは、やや冷たい印象を受ける。悦子は万里子に対しては献身的に支えていた反面、時おり冷たい態度をとっていたのではなかったかと思うようになるが、この冷さを実は景子に向けていたのではないかとも感じる。景子を自殺に追いやったのは自分のせいではないか。 罪の意識は、景子と万里子の混在により曖昧になったままだ。


子殺し

親の子に対する愛情は、紙一重である。過度に保護することによって人間性を損ね、絶望感を植え付けてしまうといわれている。また親という責任の重圧から、心とは裏腹な言動をとってしまったりもする。そのことが原因で子が自殺に追い込まれたり、病気になったりしたとしたら、それは子殺しといえるのだろう。


イギリスでは、日本人には本能的な自殺願望があるという見方もあるという。この物語は景子の自殺に始まり、万里子が見た子殺し現場、また長崎での連続子殺し事件、さまざまな死を提示しながら、外から見た戦後の日本のイメージを随所に醸し出している。


佐和子自身、母としての責務と、女として再出発したいという狭間で葛藤していたひとりだ。そんな彼女が、ある日万里子がかわいがっていた猫を殺めるのだ。万里子が見ていると知りながら、くじ引き屋台でもらった野菜箱を使って、猫を川に沈めた。万里子の分身のような猫、猫=万里子と考えると、佐和子は我が子を殺めたのも同然だといえる。


万里子はいつか自分も同じことをされるのではないかという恐怖をもっていただろうし、佐和子もいつ娘を殺めてしまうかわからない危うさがあった。


これらのことを回想した悦子は、ふと我に返り、景子の自殺は自分のせいではないと開き直る。ニキもそういっていたんだから、と。
ニキの言葉は、あのとき佐和子がいっていたことと重なる。
「ただの猫よ、ただの猫なんだから」、、、、。



クリスマスキャロルからの教訓

本作は、
悦子の現在から過去、過去から未来、
佐和子の過去、現在、未来が複雑な2重構造をおりなしている。
二人は同一人物だとは思わないが、似ている部分もあり、佐和子の人生を悦子が追いかけている、つまり佐和子は悦子の象徴であり、未来像である。


このことは、さりげなく登場する、ディケンズの『クリスマス・キャロル』にあてはめて考えることができそうだ。


ここでディケンズの『クリスマス・キャロル』を簡単に紹介すると、
強欲なエゴイスト、スクルージの前にクリスマス前夜3人の幽霊が順番に現れる。
それは過去、現在、未来の幽霊。
スクルージは、それぞれの場面で自分の人生を振り返ること、現実に向き合うこと、どうすれば未来は変えられるかについて考える機会を得る。
特に未来の幽霊は恐ろしく、彼の未来の悲惨な状況をみせつけた。しかし未来は努力次第で変えられるのだから、希望を持ち、これまでの罪を悔い改めなさいという教訓が込められている。


著者がここで『クリスマス・キャロル』を起用したのは偶然とは思えない。佐和子は英語版の『クリスマス・キャロル』を父からもらい、読めるように勉強していたが、まだ読破していないにもかかわらず、あたかも3人の幽霊に会ってきたかのようなことを言う。

「過去ばかりふりかえってちゃだめね。わたしも戦争でめちゃめちゃになったけど、まだ娘がいるんですもの。あなたの言うとおり、将来に希望をもたなくちゃだめね」(p.156)


一方、悦子からしてみれば、3人の幽霊の存在は身近にあったといえる。
自分の未来の幽霊、佐和子をみると不快感をおぼえるが、結局は自分も佐和子と同じように生きてきてしまった。
過去の幽霊(つまり夢に出てくる少女)は景子であり、後悔の念に取り憑かれている。
現在の幽霊をニキとしてみれば、彼女の自由奔放な考え方も取り入れ、未来はまだ変えていけると希望をもつのだ。

結末

佐和子は結局アメリカ兵に裏切られ、アメリカ行を断念するが、娘と神戸に移住することを決め、出発の日を最後に回想は終わる。
悦子はニキを見送る際、大切にしていたカレンダーを渡す。
そのカレンダーには、あのときケーブルカーに乗り、山頂から見下ろした風景があった。
悦子はそれを手放すことでやっと、過去の苦しみを手放すことができたのだ。


本作で並行して語られていたのは、義父(緒方さん)のこと。
緒方は、昔の教師時代の名声を誇りに生きてきたが、時代は民主主義に変化し、戦前の思想が通用しなくなり困惑していた。
この人物は後の作品『日の名残り』のスティーブンスや、『浮世の画家』の小野の原形といえる。


奇妙な物語を作りたかったと言うカズオ・イシグロ
多くを語らない登場人物たちや、記憶の曖昧さが、奇妙で不気味な世界を作りあげている。その謎を解くために、読み終えるとすぐに再読したくなるような、そんな魅力がある作品だと思う。


2021.5.16 記
2022.6.18 更新


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