Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

ジョージ・エリオット、ただひとつの歴史小説『ロモラ』

世界史にうとい私は、歴史小説ときくと、つい身構えてしまいます。


が、エリオット渾身の大作、これを読まずして、現在進行中である私の「ジョージ・エリオットブーム」の幕は下ろされません!ということで、意を決して飛び込んでみました。


舞台は15世紀イタリア、フィレンツェ
エリオットの知識の宝庫とでもいうように、当時の時代背景が、詳細かつ正確に再現されているといわれています。


事実と虚構を織り交ぜた物語、実在した人物や、実在する書物が登場するところは、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を彷彿とさせます。


とはいえ、軸となるのは架空のヒロイン「ロモラ」の挫折と成長の物語。これまで読んできた作品同様、エリオットの緻密な内面描写が際立つ、倫理的、道徳的物語ともいえるでしょう。


歴史的背景がわかりずらいなあと思っても、何か知識が欠けていたとしても、とにかく前に進んでいけば、心に残るものがいくつも見つかる作品です。




原題 Romola , 1862


簡単なあらすじ(ロモラを中心に)

ロモラは盲目の学者である父を献身的に支えていた。父の研究を通して知り合ったギリシャ人孤児ティート。二人は必然的に惹かれ合い結婚するが、快楽主義のティートにはいくつかの秘密があった。父の死後、夫の裏切りに耐えかねたロモラは、フィレンチェから出ようとするが、ある男性サヴォナローラにとめられる。


あなたは、神が課された運命から逃れようとしている、自分の居場所へ戻りなさい


これに従い一度は戻るが、やはり運命は変わらないと悲観し、再び脱出を試みる。


ひとり乗り込んだ小舟に身をゆだね、このまま死んでもいいと考える。孤児になった気持ちで眠っていると、ある子どもの泣き声に目が覚める。


その子供の村で見たものは、疫病に苦しむ人々だった。ロモラはその村で、ただひたすら奉仕し、無我夢中で生きた。この経験を「新しい洗礼」とし、村の人びとからは聖母(マドンナ)と呼ばれるようになる。死のうと思った過去を恥じ、慈悲愛を中心に生きる決意をする。

服従」か「反逆」か

本作には実に多くの人物が登場し、裏切り、復讐、葛藤、孤独、死、などがあちこちで蔓延っている。読み進めるうちに、それらの人物たちは各々「服従」と「反逆」の狭間で葛藤していることがわかる。もちろんロモラもその一人だ。


服従の神聖」さはどこで終わり、「反逆の神聖」さはどこから始まるのか
というロモラの問いは根深い。


どこまでが義務なのか、いつ反発すべきか、あるいは、いつまで耐えるべきか、いつから逃げるべきか、という問題は、判断やタイミングを見誤れば、大罪となって自身にふりかかってきたり、人生を狂わせたりする。しかし一方で、後に運命が傾きだし、成功したといえることもある。結果的にはロモラの場合は後者なのであろう。


ただ、注目するのは、ロモラが服従「反逆」神聖なものと捉えているところだ。


どこか違和感が残る。
狭い世界の中で自制を余儀なくされてきた彼女の、無知な、ひとりよがりな妄想にすぎないのではないかと思えてくるからだ。盲目の父に献身的に仕える生活に、希望の光を与えてくれたティート。しかし結婚生活は、もろくも破綻していく。夫からの脱出は、自己の道徳的判断から行動したことだと正当化するところ、自分の行動は尊いものだと考えるところは、どこか幼さや英雄的なものを感じる。不幸や挫折をも美化する、悲劇のヒロインを演じているかのようだった。


一方、表立って同時進行しているのが、フィレンチェの世情。フランス軍の侵攻はじめ、激動と言われたこの時代には、法律正義の狭間で揺れ動く人たちがいた。これらは個人の服従反逆の関係と対をなして、物語に奥行きをもたらしている。代表的なのは、ロモラを引きとめたサヴォナローラ。彼は実在した人物ジローラモサヴォナローラ(1452-1498)で、フィレンチェで神権政治を行ったが、教皇側と対立し、異端の罪で火刑にされた。サヴォナローラの葛藤は、ロモラのそれと同類であったのだろうか。このあたりは、もう少し歴史の知識があれば深読みでたのではないかと思う。


最後に著者は、ロモラをこのように振り返る
「外面だけの結婚が彼女に一組の偽りの義務を押し付け、しかもその義務の本質は、自分の精神が嫌悪から顔を背けたものを、隠蔽し是認することだった」


過去の自分を悔い改め、愛と希望をもって生き続ける女性たちと、あっけなく死にゆく男性たち。この構図からみても、本作は著者ジョージ・エリオットのフェミズム主義と、実生活の影響が滲みでているのではないかと感じた。


男性の名で活動する女流作家、ジョージ・エリオットの生き方(興味のある方は調べてみてください)は、その時代では受け入れられるものではなかったけれど、そこがまた、かっこいいなあと私は思う。


違和感といえば、最後にもう一つ。
聖母となったのロモラがフィレンチェに戻ったあと、亡き夫の内縁の妻とその子供二人を支え、育てることになったのだが、個人的にはかなりの衝撃で、ありえないなあと思ってしまった。これもまたエリオットだからこその結末なのだろう。