Ranun’s Library

カズオ・イシグロ文学とその周辺のあれこれ

カズオ・イシグロ × 大江健三郎 対談レポート ~中篇~

Conversations with Kazuo Ishiguro ”, 2008
カズオ・イシグロ × 大江健三郎 対談レポート ~前篇~の続きです。


カズオ・イシグロの作品は、英語の原文が、多くの国で翻訳されています。
一方、大江健三郎の作品は、日本語の原文が、多くの国へ翻訳されています。

真逆の立場のお2人ですが、自身の作品が翻訳されるという点で、共通する考えがあるのか否か。イシグロは、世界中の人に読まれることを想定して小説を書いていますが、大江も同様なのかどうかという問いから、再開です。


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グローバル作家としての思い

(この対談は1989年に行われたものです )
大江:ドイツのテレビインタビューで、私の小説を翻訳した方から質問を受けたことがあります。ドイツ語に翻訳するにあたって、注意することは何ですかと聞かれたが、、、、


ありません」と答えた。


そりゃもう、スタジオは凍りついて大変でしたよ。
わっはっはっ(ちょっと盛りました、たぶん笑ってない)

私は他の国ではなく、日本のごく限られた読者に対して書いたんです。私と同じような世代で、私と同じような経験をした人々に向けて書いた。だから海外で翻訳されたり、批評されたりすることには興味がない。

しかし読み手の側から言わせてもらえば、外国文学は私にとって非常に重要だ。特にウィリアム・ブレイク。彼を基に書いた本もあるし、マルカム・ラウリーを基にした本もある。(イタリアのトスカーナ)地方の偉人ダンテもそう。ダンテは尊敬している。あなたの(英語の)小説もそうです。

私は海外の文学から、実に様々な影響を受けている。

しかし、やはり私は日本の読者に対して書いているのだと改めて思う。

そういう態度は、おそらく間違っているとは思うが、抜け出せない責任感みたいなものがある。

あなたの作品『日の名残り』では、イギリス人とアメリカ人の両方の観点ををうまく表現している。ある見方ではイギリス人がよく見えるし、もう一方ではアメリカ人が良く見える。その観点こそがあなたのスタイルだ。あなたは真のヨーロッパ人であり、本質的に国際的だと思う。

私はというと、三島以上に日本の作家といえるかもしれない。

これからの若い日本人作家が、より国際的な視野をもてるようになることを願うばかりだ。


イシグロ:著者が語りかけていると思っている相手(読者)と、著者が実際語ることになった相手(読者)とは明確なつながりはないと思うんです。

つまり、古代ギリシャ人であろうと誰であろうと、偉大な古典作家の多くは、将来自分の言葉が、全く異なる文化の人々に向けられるとは思ってもいませんでした。

もしかしたらプラトンも当時、アテネの人々だけに書いていたかもしれません。しかし長い長い年月が経った今現在も、世界中の人に読み継がれています。

私は時々不安になるんです。世界中の人に読まれることを意識している作家は、実際はかなりの逆効果をもたらしているのではないかと。文学で非常に重要な何かが消滅してしまうのではないかと。

近年はアメリカの文化、または英米文化と呼ばれるものが、世界中に浸透している時代です。アジア、ラテンアメリカなどにも、ますます広がっている。これは取材に悩む作家にとっても、重要なことです。

大江さん、あなたです。
あなた自身も、日本の限られた人だけに書いているかもしれませんが、あなたの本はもっとたくさんの人に読まれています。翻訳したいと思われています。いずれあなたの評判は世界に広がるでしょう。小さな集団に向けて書いた作品が、人の心を揺さぶる素晴らしいものであれば、のちに全世界の人に読まれるということです。

小さな集団に目を向け、熱心に語りかけようとする初期の頃の熱意が失われていれば、誰もそれを読みたいとは思いません。国際的な作家であるかどうかは、自分では制御できないものです。ほとんどアクシデントに近い。

しかし多くの場合、作家が意識的に少数の人々、または多数の人々に書いているかどうかにかかわらず、その作品が深く、真実味があるほど、国際的である可能性が高くなるのです。

日本の若い作家たちは、自分たちがどれぐらい国際的であるか、気にしていると思いますか?

若い世代、未来の世界文学への思い

大江:昨日の朝日新聞夕刊に、村上春樹の記事があった。彼の作品の英訳が、ニューヨークでどれほど広く読まれているかという記事だ。環太平洋の文学が想像できると、ニューヨークタイムズに取り上げられたそうだ。

先週ちょうど考えていた。はたしてあなたは、どの分野の小説家だろうかと。

私の行き着いた答えは、あなたはイギリスやヨーロッパの作家という以前に、英語で書く作家であるということ。

文学の資料を充実させるという点では、英語という言語は偉大な力がある。

とりわけ小説の分野では、世界文学の主導権は英語にあるようだ。英語で書くことができたら、作家はイギリスにいる必要もないし、すばらしい作家でいられる。あのD.H.ローレンスもそうだったし、ロレンス・ダレルも、E.M.フォースターもそうだった。そう考えるとあなたのことも理解できたんです。

そこで村上春樹と比較してみたんだ。私は彼の文章は真の日本文学ではないと思う。英文学とも言えない。しかしアメリカ英語に翻訳されれば、ニューヨークでも、ごく自然に読まれている。

実際、若い日本の作家はアメリカで広く読まれている。これは日本文学の未来にとって、よい兆候だ。彼らは私や三島、阿部公房ができなかったことを成し遂げているんだから。


イシグロ:まったく同感です。私は以前、ヨーロッパの知識人ジョージ・スタイナーの講義を受けていました。イギリスではとても有名なかたです。あなたの考えは彼の思想に精通していると思います。

彼が懸念していることは、世界中の文化が、英米文化という成長し続けるこの大きな毛布に、飲み込まれてしまうのではないかということです。

例えば中国や日本の科学論文は、英語だけが通用する学会で発表しなければならないため、英語で書かれることが多いという。この事実に非常に不安を感じています。

文化が死滅することを恐れているのです。

彼らは生き残るためには、芸術や文化を面白くさせたり、それらを意味あるものにさせることを犠牲にし、その代償として、この無意味な毛布、世界を征服しているこの奇妙なものに貢献しなければならないのだ。もし私たちが同じような文化に貢献したり、同じような読者に小説をかいたりするのは、とても奇妙だと思う。私たちが皆、国際的なテレビのように、文学や芸術が同じ方向へ行くのは悲しい。

イギリスの若い作家の間では、イギリスはもはや主要国ではないという感覚があります。古い世代は、イギリスはとても重要な国だと思い込んでいますが、若者は違う。

イギリスはもはや世界の中心ではなく、片田舎の小さな都市になっているという劣等感すら抱いている。彼らがイギリスでの人生を単純に描いたとしても、誰も興味を示さないと気づいている。彼らは意識的に国際的なテーマに取り組む努力をしなければなりません。

おそらく、アメリカや日本には存在しない感覚だろう。アメリカや日本は今や世界の中心にあり、21世紀はこの2つの国に支配されるだろうという強い感覚があります。

私自身もイギリスに住んでいると同じプレッシャーを感じます。もっと国際的にならなければ、デンマークスウェーデンのような周縁の作家になってしまう。

若い日本人作家にとっても、時代が進んでいるからといって劣等感を感じる必要はないと思います。


***休憩タイム***


この後さらに白熱し、政治的、国際的な話に発展していきますが、


ちょっとひと休みして、少し感想。


イシグロは、国際的な作家を目指しながら、内心不安を抱いていたとは驚きでした。ある国、ある地域だけに息づいた文化や言葉、個性的で優れた文化を消滅しかねないと。いかにもイシグロさんらしい考えだと思います。自身の経験と、イギリスという国民性の両方から感じる劣等感や周縁感は、今となっては、必要不可欠だったのではないでしょうか。

その後の彼の作品『充たされざる者』以降は、確かに何かが変わった気がします。

特に『充たされざる者』『夜想曲集』は、
イギリス、日本以外の国を舞台にし、英語を母国語としない国の、英語で話さない人のお話を、英語でかいているのです

普通に読めば見過ごされてしまうほどですが、実は入念に練られた作戦だったのかもしれないのです。

大江健三郎の発言では、村上春樹への言及が気になるところ。
村上春樹といえば、その独特な文体と世界観が、度々カズオ・イシグロと比べられたりしていますが、実際このお二人には交流があり、お互いをリスペクトされています。朝日新聞には何が書かかれていたのか、もう少し具体的に述べてほしかったなあという気がしてなりません。気になります。


ということで、
当時の新聞を調べてみました。
ありました!

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朝日新聞社 デジタル縮刷版 東京, 夕刊 1989年11月13 日 p.5 より )

内容を簡単に抜粋、要約すると、
人気作家、村上春樹の『羊をめぐる冒険』が英訳され(A Wild Sheep Chase)米国で発売された。同時代の日米文学交流を、一歩進めるものと注目を集めている。
ニューヨークタイム紙のトップに取り上げられ「汎太平洋小説」と呼べるだろうと賞賛。さらにその作品は、阿部公房、三島由紀夫川端康成らの伝統的創作とは違うと指摘。スタイルは米国の作家に近い。また、米国でのデビュー作を魅力的なものにしている原動力として「現代日本と米国の中産階級、特に若い世代に共通して感動を呼べ、しかもしゃれた躍動的な言語でそうできる作者の魅力」をあげている。現代アメリカ文学が日本の作品を取り入れるようになってきている。ラテンアメリカ文学に続き日本文学への関心が高まっている。

なるほど、この賞賛ぶりには大江健三郎も困惑している?ということでしょうか。


後篇へつづく、、、、



注:会話の流れは原文に沿ってますが、完全な訳ではありません。
説明を少し加えたり、繰り返しになる部分は省略していますのでご容赦ください。
”Conversations with Kazuo Ishiguro ”, 2008
The Novelist in Today's World: A Conversation
Kazuo Ishiguro and Kenzaburo Oe
/ 1989(pp.58-62)


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