Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

悔恨と郷愁による再起の物語『トーニオ・クレーガー』トーマス・マン

トーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』(原タイトル:Tonio Kröger , 1903 )を読みました。


河出文庫・平野 卿子訳 , 2011 )


本書はトーマス・マンの代表的な青春小説であり、自伝的要素が強い作品として知られています。日本人作家(北杜夫三島由紀夫平野啓一郎など)へも多大な影響を与えたようです。


タイトルは他に「トニオ・クレエゲル」「トニオ・クレーゲル」「トニオ・クレーガー」などと表記されますが、個人的には本書の『トーニオ・クレーガー』の日本語訳が非常に読みやすいと思いました。哀愁漂う素敵な挿絵は、原書と同じものが使われているようです。


トーマス・マンといえば『魔の山』を一度読んだきりで、読みやすいけれど難解だなあという印象がありましたが、本作は短編~中篇ということもあり断然読みやすく、なぜもっと早くに読まなかったのかと悔やまれるほどです。


とはいえ、主人公トーニオの内面の複雑さは、一度読んだだけでは理解しがたいものがあります。そこで2度3度続けて読み直すと(それ以上読む価値はあります)、トーニオに共感や愛着を覚え「普通の人」が「人生を愛す」ために苦悩しながら一時は「死んだも同然」になるも、最終的には「心が生きている」状態に戻ることができたという、郷愁と再起の物語なのだと気づきます。


普通の人」あるいは陽気でイキイキとした平凡な人というのは、トーニオがもっとも軽蔑していた人達であり、一方で幸福と憧れの象徴でした。少年期の彼は、友人ハンスの青い目と金髪、そして明るい性格に憧れ、イングという女性にも恋をしましたが、疎外感にさいなまれ孤独でした。しかしその思いは意外とポジティブなものだったのです。

憧れと、憂鬱な羨望と、ほんのすこしの軽蔑と、この上なく清らかな幸福感で満ちていた


トーニオ自身、このような相反する性質をもつのは、北ドイツ出身で厳格な父と、イタリア出身で情熱的で奔放な母親のもとで育ったことに起因すると考えます。ふたつの世界のどちらにも居場所がないという孤独は、生れながらに授かった宿命だったのでしょう。


心が死んでいる」状態になるのは、トーニオが成長し、芸術家(文人)になるべく故郷を出てからです。ミュンヘンにて「芸術的精神」と「言葉」に身も心も捧げ、なんとか成功するも、高慢による孤独、そして快楽と官能という谷へ落ちていきます。


彼が考える芸術家とはこのように「人間らしくない」生き方をすることなのですが、一方で幸せに生きようとする芸術家を軽蔑しながら実は自分も同じように「人生を愛したい」のだという憧れが同居していることに大きな矛盾を感じ苦しむのです。これは対象は変われど、少年期の内面と全く同じといえます。そしてある日友人リザヴェータに悩みを告白します。


芸術家とはなにか、また「認識」と「言葉」についての独自論を長々と講ずる場面は圧巻で、この物語の山場といえます。まるで取りつかれたように情熱的に話し続けたトーニオと対極をなすように、リザヴェータはたった一言こう告げます。


「要するにあなたは普通の人よ・・・・迷子になった普通の人


その後、トーニオは故郷デンマークへ再訪の旅に出ます。それは自他ともに「普通の人」を認め、あの頃のように「心を生き返らせる」ための回想の旅でもあります。


このあたりから文体が様変わりし、徐々に幻想的で詩的な描写が満載になっていきます。トーニオがノスタルジーに浸り、夢か現かの境目、まさに二つの世界の狭間を行ったり来たりするのですが、その時どきで見える風景や人物の描写はとにかく素晴らしく、著者の魔術とさえ感じます。


「これからどこへ?」「これからどこへ?」と夢遊病者のごとくふわふわと、気の向くまま、時空を超えた旅を楽しんでいるかのようなトーニオですが、その姿にある意味哀れみを感じてしまいます。昔住んでいた家は図書館に変わっていたり、詐欺師と間違われ逮捕されそうになったり、故郷は簡単にトーニオを受け入れてはくれませんでした。


ここでキーワードと思えるものに「ドア」「扉」があります。ちゃんと閉まっていないドアからは過去への憧れへと誘導され、閉ざされた扉はガラス窓になっていて外から眺められる(逆に言えば外からしか眺められない)。また扉を閉める(閉められるこ)とによって夢から現実に戻ります。これはカズオ・イシグロの『充たされざる者』の世界観を彷彿とさせるのですが、つまり「ドア」「扉」は二つの世界をわける境界線なのです。


旅の終盤、トーニオはホテルのベランダにあるガラス扉が開け放されていることに気づき、中に入っていくのですが、なんとそこで「幻想的な光の魔術」をみます。昔憧れていたハンスとイング(に似た二人)がダンスパーティで踊っていたのです。あっけにとられ、そのままガラス戸ごしに(ガラスを通してしか見ることができない)見つめ続ける彼の姿は哀れにも、作中の言葉でいう「片づけられた」人の象徴でした。


トーニオの感情の混乱はここでピークに達し、むせび泣きます。もう二度とやり直せないという後悔、諦念、憧憬、荒んだ日々の反省、いろんな思いが駆け巡ります。しかし相も変わらず存在する矛盾、それは、生きることの喜びが沸々と湧きあがってきたということです。


結果的には大人になってもトーニオの相反する性質は変わらず、孤独に生きようとするのですが、故郷への再訪によって自分に正直に生きることの大切さに気付きます。芸術家として普通の人間であることを受け入れ、これからはもっといい作品を作っていたいという新たな決意をリザヴェータへの手紙にし、物語は終わります。


手紙の最後には、あの頃とほぼ同じセリフが書かれていました。

そこには憧れと憂鬱な羨望と、ほんの少しの軽蔑と、この上なく清らかな幸福感とがあった