Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『充たされざる者』"The Unconsoled" カズオ・イシグロ

充たされざる者』(The Unconsoled ,1995 )は、カズオ・イシグロの4作目の長編小説で、1995年イギリスでチェルトナム文学賞を受賞しました。
後にも先にも類をみない、最も長いおはなしです。文庫本でなんと900頁を超える分厚さを見て、手を出せずにいましたが、1度読み始めたら止められず、その面白さにどんどんハマっていきました。わたしのなかでは、これは間違いなくカズオ・イシグロの最高傑作だといえます!



この物語は、普段わたしたちが夢で見ること、例えば遅刻しそうなのになかなか辿りつかない、目の前にご馳走が並べられているのに食べられない、昔懐かしい人が出てくる、変な会話、あり得ない事件に巻き込まれるなどといったことが、絶え間なく続いていきます。夢とも現実ともわからない時空が、断片的に訪れ、かなり困惑させられますが、そういうものなんだと読み進めていくと、どんどんおもしろくなっていきます。イシグロはこの作品はブラックコメディーだと述べているように、ときおりクスッと笑えて、つっこみたくなるような場面も多々あります。深刻さと曖昧さと、ユーモアがほどよく交じり合った、これまで見たことのないイシグロワールドです。

簡単ななあらすじ

主人公ライダーは、どうやら世界中で名の知れたピアニスト。
中央ヨーロッパと思われる小さな町に「木曜の夕べ」という演奏会に出演するために訪れた。町では著名人として手厚くもてなされるが、彼らの言動はどうも不自然だ。市民たちは「木曜の夕べ」に何らかの救済を求めているようで、ライダーに過度の期待をしている。ホテルに着くなり、老ポーターに奇妙な頼みごとをされる。その後も次から次へと理不尽な頼み事や、口論、奇想天外な事件に巻き込まれ奔走する。しかも、妻と息子らしい人物が突如現れ、ライダーの予定と感情をことごとく狂わせる。いつまでたってもピアノの練習どころか休息もできない。そして演奏会当日を迎えるが、、、。

かみ合わない会話

ライダーが出会う人々は、とにかくよくしゃべる。話が長い。言葉のキャッチボールというものを無視し、言いたい放題まくしたてる。それでもどこか上品で丁寧すぎる話し方や、空気を読まない、くだらないとも思える内容に、おかしみを感じ、最後まで聞いてみようという気にもなる。人のよいライダーも、律儀に最後まで話を聞いた末、意味不明な依頼を結局は引き受けるのだ。逆に、うまく会話のキャッチボールが出来たと思えば、、、は?何のことですか?本気で言ってるんですか?と言われたり、忘れたふりをする、知らないふりをするといったような、後味の悪い会話になってしまう。しかし読み進めるにつれ、徐々にわかってくるのは、周囲の人たちは、実はライダー自身の問題や心情をさらけ出す代弁者であるということ。そのことにうまく対応できずに、混乱するライダーの様子がみてとれる。

どこでもドア

地理的空間が歪められたような町では、ドアを開ければそこは異世界。まるでドラえもんの、どこでもドアだ。もしかしたらドアそのものが、ライダーのトラウマの象徴なのではないだろうか。ライダーがドライブした先で見つけた廃車に注目してみるとその理由がみえてくる。その廃車はドアがもぎ取られていたのだ。そこで蘇るのは、ライダーが子供時代に父親の車の後部座席で遊んでいたこと。母親からは、ドアの開け閉めの音について以下のように注意されていた。

車のドアをばたんと閉めるんじゃありません。その音を聞くといらいらするの、今度それをやったら「生きたまま皮をはぐわよ」P.461

これには幼いライダーも震えるほどの恐怖を覚えたに違いない。ライダーはドアを見た瞬間に母の言葉を想起するようになり、混乱し、瞬時に時空が歪められ、現実逃避のため、異世界へ連れていかれるような感覚になるのだろう。

沈まない夕日

時間の流れがおかしい。ホテルのエレベーターの中でライダーとグズタフが時間的に不可能な長さの会話をするシーンは代表的だが、私が注目したのは、いつまでも沈まない太陽だ。夕方妻と息子を乗せてギャラリーへ向かってドライブする最中、夕日を見ては3人とも魔法にかけられたようにぼんやりしだす。目的地付近につくまで、私が数える限り実に16回もの夕日 (the sunset) の描写がでてくる。途中でカフェに寄り「とうとう長居してしまった」というのに、再びドライブが始まると、なんとまだ夕日は沈んでいないのだ。時間が動かない、あるいはスローモーションの時空だ。また、この時に出てくる赤い車 (the red car) も注目に値する。見知らぬ土地を運転するライダーは、ある男性にあの赤い車の後を走れば目的地に着くと教わり、あとをつけていくのだが、8回も出てくる。赤い夕陽に赤い車、イシグロはこの赤を執拗ともいえるほど随所に散りばめることによって何らかの警告を示しているのではないだろうか。息子のボリスが気分が悪いと癇癪を起こし、そのあと、例の廃車を見ることになるのだから鳥肌ものだ。フラッシュバックの前触れが、美しい夕日を背景に、スローモーションで描かれているとても印象的な場面である。

父と子の関係

ライダーの息子ボリスへの対応は冷ややかだ。彼はボリスを呼ぶとき、彼、少年 (the boy)、男の子 (the little boy) などと言う。そして自分のことは「おじさん」(原文ではI(私))と言う時もある。自ら壁をつくっているかのようで、非常に違和感がある。ある日、話し出すボリスを無視し新聞を読み続けるという幼稚な行為をするのだが、それはまるでゲーム感覚。どちらが先に折れるか戦略をたてたり、勝利をかみしめたりする。またある時は、ボリスにプレゼントした手引き書について怒りを爆発さる。

いいか、こんなものは無用のプレゼントだ。まったく無用の。何の考えもなければ、何の愛情も、何の気持ちもこもっていない。(中略)それでも君はこれがわたしからのすばらしいプレゼントだと思うのか!」(p.830)

これらの言動からもわかるように、ライダーは父親としての任務を果たそうとする反面、手に負えなくなれば自分本位で幼い態度をとる。そしてこのような態度をとった後は、必ずと言っていいほど言い訳をし、まるでボリスが泣き出す時のように感情をあらわにする。ボリスはまさに、ライダーの幼少期を具現化された人物とされている。

3人の自己投影者

この物語は少年ボリスのほかに、ライダーの投影者とされる人物があと3人いる。彼らに共通するのは「埋められない」ことから「切断」へ向かうことだ。

①ブロッキーの場合

ブロッキーは「木曜の夕べ」に出演する老指揮者、ライダーの未来を映し出している。かつては賞賛をあびていたが、アル中のため落ちぶれ、しばらく音楽からはなれていた。「木曜日の夕べ」で復活をはたすことで、破綻している元妻からも、市民からも信頼を取り戻したいと願っている。
ブロッキーは愛犬ブルーノの死後、墓へ埋めるときに、元妻と会いたいと望む。かわいがって離さなかった愛犬ブルーノは、ブロッキーの心の傷の象徴であり、守るべきものであった。それを埋めて忘れることで、また新たなスタートがきれるのでかないか、墓の表層のようにのどかで美しい気持ちで彼女とやり直せるのではないかという思いがあったのだろう。しかしそううまくはいかない。「あなたのばかばかしい小さな傷!」などと元妻からの心ない言葉が繰り返される。埋めようにも埋められない心の傷をかかえ、ブロッキーは絶っていた酒を飲んでしまう。そして「木曜日の夕べ」の直前に事故で足を切断する。この切断は、心に傷の切断であり、元妻との完全な縁の切れ目となった。

②シュテファンの場合

シュテファンはライダーの青年期の姿だ。幼いころからピアノを始めるが、音楽一家という母譲りの才能が見られず両親から失望される。しかし父の勧めで「木曜日の夕べ」に出演することになり、健気に練習を重ねてきた。その成果を両親に見てもらいたい認めてもらいたいという期待は見事に裏切られ、当日母が来ない。そのうえ父親ホフマンに冷たい言葉を浴びせられる。「生まれつき才能がないなら、自分で認めなければならん」「見るにしのびないんだ、息子が笑いものになるのを」この時のシュテファンの絶望感といったらいかほどだろう。承認欲を「埋める」ことができず親から見放されて(切断されて)しまう。

③ ホフマンの場合

ホフマンはホテルの支配人でありシュテファンの父親である。「木曜の夕べ」を取り仕切っているようだが、時々物思いにふけったり、わざとらしい言動をする時がある。実は「木曜の夕べ」を成功させたくないのではないかと疑ってしまう。ライダーの写し鏡ような存在。愛妻との結婚以来、自分の音楽の才能がないのを見破られないよう、常に努力をしてきた。しかし妻から冷たい態度をとられると泣き出し「何の才能も、何の感性も、何の技巧も持ち合わせていない、わたしを捨ててくれ、捨ててくれ」と自ら「切断」を要求するところは、あまりに不器用だと感じる。そしてそれはライダーの結末に通じている。

「木曜の夕べ」の行方

この物語の終着点ともいえる演奏会「木曜の夕べ」。
これまでふれてこなかったもうひとつの問題、この町の人々期待、要望、目的とは何か。町全体にかかかわる重要であり、かつアイデンティティーに関わる問題とはいったい何なのか、具体的に明かされてはいない。この町には「市民相互支援グループ」というものもあることから、市民は何らかの不安もしくは不満をかかえていてお互い支えあっている状態なのだろうか。いずれにしてもライダーに期待されていたこととは何なのか、不透明なままだ。しかし「木曜の夕べ」が失敗に終わり、市民は不思議と安堵しているかのように見える。最初から期待などしていないかのように、、、。


出演予定であったライダー、ブロッキー、シュテファンの3人の演奏は、たいそう悲壮なものだった。「木曜の夕べ」自体が悪夢だったのか?


とにかく演奏会は過ぎ去り、朝が来た。ライダーはもう市民から相手にされなくなった。彼はこの3日間、市民に良く思われようとなんとか対応してきたことをバカバカしく感じ、自分がどう思われているかなど、どうでもいいと思うようになる。吹っ切れた感と「木曜の夕べ」が失敗したことに安堵しているかのように見えるのは、この町の人々と同じだ。みんなが充たされなった。かれらはこの先も充たされない何かを探し、何かに救いを求めていくのだろうか。

ラストシーン

空虚、という言葉がぴったりの結末に、イシグロは救いとして名もなきひとりの男性を登場させてくれる。これは『日の名残り』のラストシーンに登場するある男性によく似ている。

ライダーはヘルシンキへ行きの電車に乗っていた。
そこで幻覚でも見るかのように、妻と息子をみつけるが、息子からは無視され妻からも心無い言葉を浴びせられる。いろいろな感情がまたあふれだし泣き出すライダーに、その男性は、元気を出しなさいと言う。この電車は町を循環しているからどこへでも行けること、車内には朝食ブッフェがあるから好きなだけ取ってこれること、そして好きなことをゆっくり話し合おうと言ってくれたのだ。


イシグロは最後のライダーの言葉に、読者へのメッセージをさりげなく代弁させている。

「この電車は循環して走りつづけてるのだから、わたしたちの会話が楽しければ、彼は自分の停留所がめぐってくるまで、おりるのを延ばしてくれるに違いない。ビュッフェもまだしばらくはここに残っているようだから、ときどき話を中断しては、また食べ物を取ってくることができるだろう。(略)食べたいかぎりのものを食べ、話したいかぎりのことをはなしたとき、電気技師は腕時計に目をやってため息をつき、ホテルへ帰るなら停留所が近づいたよと、教えてくれるかもしれない。」(p.938)


つまり、こういうことかもしれない。
過去のトラウマはときどき顔を出し、自分を見失い、激しく混乱してしまうが、これは繰り返す(循環する電車)ものだから、その時は楽しいことを想像し(朝食ブッフェ)目の前のことに真摯に取り組む。そうして付き合っていくうちに、トラウマは消失していくかもしれないし(停留所が近い)、まだ続くかもしれない(おりるのを延ばす)。しかし希望の光が差し込んだ時はチャンスだから、過去にとらわれずに、自信と誇りをもって次のステップへ進んでいくことが大事なのだ。



2021.1.31記
2022.8.3更新


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