Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

本当は怖い「バベルの図書館」

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)の「バベルの図書館」を巡っては、世界中の読者の想像力を掻き立ててきたことだろう。私もそのひとり。出会いのきっかけは、映画『薔薇の名前』(原作、同タイトル Il nome della rosa ウンベルト・エーコ著 , 1980 )だった 。中世イタリアのベネディクト会修道院で起きた連続殺人事件を、主人公アドソと、師ウィリアムが解明していくというミステリー。俳優陣の名演に引けと取らない、修道院図書室や写字室のリアルな映像に魅入ってしまった。登場人物の一人、盲目の老修道士ホルヘは、ボルヘスの写し鏡であり、修道院の迷宮図書室は「バベルの図書館」をイメージして造られたと知り、この書に行き着いた。


これまで、鼓直訳と、篠田一士訳を読んだことがあるが、昨年秋に発売された雑誌「MONKEY」に新訳(野谷文昭 訳)が収録されていたので、こちらも読んでみた。



どの訳で読んでも、ボルヘスは変わらずそこに在り、私を圧倒させる。宇宙の比喩である「バベルの図書館」の神秘を、どうにか伝えようとしても、私には無為無能だということもまた変わらない事実である。それでも何度か読み返しているうちに、ふと新たな解釈が生まれてくるものだ。「図書館は無限にして周期的である」ということの意味が、うっすら見えてきたような気がする。今回は、あえて2つこと「ごちゃまぜ言語」と「鏡」に注目してみた。


まず背景として、知っておきたいのが「バベルの塔」である。かの有名なブリューゲルエッシャーが描いた絵「バベルの塔」は、旧約聖書『創世記』11章にあるお話を具象化したものだ。ノアの大洪水の後、天まで届く高塔を造ろうと、人々が協力して瓦を積み上げていくのだが、その行いが神の怒りを買い、人間同士の言葉を通じなくさせたというお話。意思疎通が不可能となった人々の離散が、世界の言語の起源であるという説もある。「バベル」は土地の名で、ヘブライ語で「ごちゃまぜ」と意味付けられ、言語の混乱状態を表わす語になったとも言われている。


『創世記 : 旧約聖書の第壹巻』,英国聖書会社(大正11.)は、国立国会図書館デジタルコレクションでネット公開されている。ほんの2ページなので是非ご一読を。
dl.ndl.go.jp


このお話を基にするなら「バベルの図書館」の源泉は「ごちゃまぜ言語の図書館」ということになるだろうか。ボルヘスは、その宇宙(図書館)は神がお造りになったものと示唆しているし、当時すべての書物は25の記号の無意味な列挙であった。はるか昔の言語なのか、方言なのか、見る人によって判別が違っていて、司書たちも、そこに意味を探し求めたりはしなかった。


そうして長い年月が経ち、「ごちゃまぜ言語」はようやく世界の言語として確立した。それを機に、図書館には、同一の書物はなく、あらゆる言語の、あらゆる書物が所蔵されている、ということが証明されたのだった。


しかしこれは必ずしも良いものではなかった。知識を我がものにしようとする者たちが、ある一冊の書物を巡り、神のもとで争いを起こしたのだ。ふたたび文字を「ごちゃまぜ」にさせられる危機にさしかかったが、それと引き換えに、役に立たない書物を破棄されることになった。


図書館の「鏡」は、複製の比喩でもある。書物は破棄されても複製が可能だ。書物は周期的に繰り返される。つまり文学作品とは同じテーマの繰り返し、あるいは変奏である、ということはボルヘス自身もたびたび口にしている。数多の自作品についても、以前誰かが書いたものと同じなんだ、と信じて疑わない。


図書館は無限にして周期的である


人類は滅亡しても、宇宙(図書館)は無限である。自分は不幸になっても、良い書に巡り合う人が幸せであればそれでいい、そう思うと孤独に光がさした、というボルヘスの言葉にしみじみと共感してしまった。


この極端に濃縮された神秘物語には「有限と無限の不条理」「過度の期待がうむ失望」「欲は悲劇を巻き起こす」というような寓意も込められていて、バベルの図書館は、私たち人間社会の写し鏡でもある。そっと覗いてみれば、怖くて恐ろしい未来が映し出されるかもしれない。




※「バベルの図書館」鼓直訳は『伝奇集』(1994) ( 原タイトル:Ficciones 1935-1944 ) に収録されている。


篠田一士訳は『世界の文学9』(1978) に収録。
Kindleではこちら


※小説『薔薇の名前』上・下(1990)

※映画『薔薇の名前』(1987)


※参考文献
●バベルの図書館の緻密な数値記述をもとに、蔵書数や積書距離などが割り出されていて、とても面白い。


●数学の観点から図書館を想像できてるという点で類似する。
クルト・ラスヴィッツ著「万能図書館」(The Universal Library)
『世界SF全集 31 - 世界のSF:短篇集・古典編』1971


ボルヘスのインタビュー集成



さて、そろそろ私はこちらに手をつけるべく、お借りしてきた。

混乱しがちだが、こちらはボルヘスの選りすぐりで編まれた、古今東西のアンソロジー。各章にはボルヘスによる序文が収録されている。


これを読み終わるころ、私はこの広大な書物の森を抜けだすだろう。
文学で世界を旅した経験が、私の血肉となったことは幸運であった。