Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

物語を動かした人物と、動かされた人たち『日の名残り』より

カズオ・イシグロの『日の名残り』は、多くの人物が登場する。とりわけ、ダーリントン・ホールに訪れる、国際的著名人は、とても多い。なかにはジョージ・バーナード・ショーなど、実在した人物もいる。しかし個人の詳細に触れることは少なく、単なる名前の羅列に思えることもある。ダーリントン卿が、いかに偉大だったか、どれほど慕われていたか、を強調しているのだろうか。少なくとも、スティーブンスが回想の中で勝利感に満ち溢れるとき、そう考えてもおかしくはないだろう。しかし、その中には、キーパーソンとなる人物がいるのも確かである。それは、物語を大きく動かすような、鍵となる人のことである。

今回注目したのは、キャロリン・バーネット夫人。1932年の夏、彼女はダーリントン・ホールに何度も訪れていた。美しく、頭脳明晰で定評のあった彼女に、ダーリントン卿もひと目おいていたのだろう。ある日、彼女に連れられて、イーストエンドの貧困地区を視察した。大不況の影響下で、耐え忍ぶ住民たちを目の当たりにした卿は、苦悩に陥る。そして、彼女が属する反ユダヤ組織「黒シャツ組織」(反ユダヤ)に加担するようになり、ユダヤ人召使2人の解雇を決意する。このことが原因で、スティーブンスと、ミス・スケントンの間に、取り返しのつかない溝が生じるのである。

このように、イシグロの作品には、確かな信頼性が構築されていない段階で、いとも簡単にその人の思想や言葉に影響されてしまうといった場面が、しばしば見受けられる。たとえば『浮世の画家』の浮世絵師、小野益次も、松田という人物に影響される。状況はよく似ている。松田は、小野を戦後の貧困地区へ連れて行く。この悲惨さをよく見よ、と言わんばかりに小野の目に焼き付けた。これを機に、小野はプロパガンダの画家へと豹変する。松田という、信頼性の薄い人物に、人生を狂わされてしまったのだ。物語を大きく動かしたという点で、キャロリン・バーネット夫人と松田は、同一人物だといえる。

では他の作品はどうだろう、こじつけかもしれないが考えてみた。短編『日の暮れた村』では、主人公を道案内するロジャー・バトンが登場する。しかし教えてもらったバス停には、バスが永遠に来ない。『遠い山並みの光』は、佐知子が恋したアメリカ人がいて、信頼性が薄いにもかかわらず、彼に振り回される。『わたしたちが孤児だったころ』は、これは逆説的かもしれないが、探偵のバンクスが、上海へ行ってきたという見知らぬ人物に、アキラに会わなかったかと素っ頓狂な質問するところが、主人公の未熟さを象徴していた。『充たされざる者』では、ラストシーンの電車の中で、無名の人の言葉が主人公の傷心を癒す。『忘れられた巨人』は、知り合ったばかりの船頭の不気味な発言が、ベアトリスの頭から離れない。『わたしを離さないで』では、コテージで出会ったクリシーとロドニー、ポシブル騒動が印象的だ。彼らの言葉を信じ、ルースのポシブル(親のような存在)を探しに行くのだが、結果的には失敗に終わる。自分たちの親は、普通の人ではなく、どぶやゴミ箱の中にいる「クズ」なんだと、諦めに近い悟りを得るのだった。

こうして見てみると、キーパーソン側の邪悪さというのは、はさほど感じられない。問題なのは、簡単に影響を受けてしまう主要人物の心の弱さや、孤独感なのだろう。良く言えば、純粋無垢な人たちだ。では、スティーブンスはどうなのか?悪影響を受けてしまったダーリントン卿をそばで見ていて、どう行動するのか、、、、。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)
The Remains of the Day (FF Classics) (English Edition)
(読書会メモ3)