Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

エーコの名作を再び楽しむ『薔薇の名前』

イタリアの記号学者、ウンベルト・エーコが、わずか二年で書き上げたという『薔薇の名前』を、私はもう何年も折に触れて読み返している。そのたびに、自分の教養のなさを突きつけられてしまうのだが、引き返す勇気もなく、むしろ知の好奇心をかき立ててくれる。そんな特別な一冊である。



今年のクリスマスに『薔薇の名前』の完全版が出版されるということで(https://note.com/tokyosogensha/n/n1f968e64a504)、またあの迷宮へと足を踏み入れたくなった。そこで今回、ガイド役として手に取ったのが、「ユリイカ」(青土社, 1989)。なかでも役立つのが、谷口勇氏による『薔薇の名前』ダイジェスト。ダイジェストとはいえ、各章ごとに書かれているので、全体で28ページ、かなりの量である。大変読みごたえがあり、今まで気づかなかったことを教えてくれる。ときどき立ち止まっては、本文を断片的に読み返している。



行きつ戻りつ読んでいるなかで、今更ながら新たな発見がいくつかあり、それについて調べ物をしたり、引用文献を読んでみたり、あるいは実在する人物や修道院、地名などをネット検索してみたり......、そうこうしていると、さてどこへ戻っていいのか、わからなくなってしまうから不思議だ。谷口氏はダイジェストの最後にこんな言葉を添えている。「本作品はそれ自体が迷宮になっていて、各人様の読み方が可能......」。なるほど、迷宮に陥るのは私だけじゃないのだ、と思うと少しホッとした。出口がわからなくとも、これこそが『薔薇の名前』を存分に楽しむということなのだろう。

無意味だと思うことにも、別の意味があり、新たな解釈として読み解かねば
薔薇の名前』下巻p.289

というウィリアムの言葉がよみがえる。

ところで今回、とりわけ気になったのが、修道士ヴェナンツィオ。彼はアリストテレスや、ルキアノスの研究をしていて、翻訳家でもある。そして、この物語の2番目に死する人物である。彼はなぜ殺されたのか......。その伏線となるものの一つとして、驢馬に変身した男の物語が挙げられる。

ヴェナンツィオが、ギリシア語からラテン語に翻訳していたこの物語は、ルキアノスの「ルキオス、またはロバ」に由来する(と思われる)。魔術に興味津々だった青年ルキオスが、魔女と出会い、鳥と間違えてロバに変身させられるお話。ロバ時代は、暴力や嘲笑、快楽と苦痛の世界を旅し、最後に「薔薇」を食べて人間に戻り、笑い話として終わらせる.....。といった喜劇的な内容だ。


ルキオスまたはロバ / 戸高和弘訳は、こちらに掲載されています↓
ndlsearch.ndl.go.jp


喜劇や笑いは、老修道士ホルヘがもっとも怖れ、禁じていたものであるから、ヴェナンツィオとは水面下で対立していた。このような異端として禁じられていた文学を、翻訳作業を通して修道院に取り入れようとするヴェナンツィオは、さながら背中に重い(危険な?)荷物を運びこもうとする「ロバ」そのものである。

また「薔薇」という語が『薔薇の名前』のタイトルに直結していて「薔薇=救済」と捉えることもできるし、行き過ぎた知的欲求が災いを招くというテーマが、『薔薇の名前』の修道院での殺人事件と結びつく。

それだけではない。『薔薇の名前』も「ルキオス、またはロバ」も、原本は失われているという構図もそっくりだ。実はルキアノスの「ルキオス、またはロバ」は、現存しないルキオスの『変身物語』からの妙録であり、アドソが想起したというアプレイウスの「黄金のロバ」(と思われる)もまた、ルキオスの『変身物語』を下敷きにして内容を膨らませた作品である。つまり「ルキオスまたはロバ」と「黄金のロバ」の両作者が、同じ原本をもとに別々に作成されたものと考えられている。(「偽預言者アレクサンドロス」解説参照)



価値ある書物は、時代や言語を超え、変容しつつ読み継がれていくものだ。エーコがこの寓話的な物語をえらび、『薔薇の名前』に組み込んだことは、とても興味深い。ヴェナンツィオの死に関わるアリストテレスの『詩学』第2部もまた、現存しない失われた禁書であるのだが......読む者の想像の中だけに存在する書物というのは実に神秘的である。

このことについてエーコは次のように述べている。

テクスト全体がテクストを下敷きにして書かれています。引用と戯れを私は充分に楽しみました(「ユリイカ」p.143)

修道士ウィリアムも作中このように言及していた。

書物はしばしば別の書物のことを物語る(『薔薇の名前』下巻p.52)

エーコが『薔薇の名前』散りばめた知を、ひとつひとつ拾い集めることは、私にとって時間のかかる作業だけれど、完全版の出版を待ちわびながら、ひきつづきこの名作を探求してみようと思う。出口は決してひとつではない。ものごとには別の見方があるだろうし、そもそも真実を求める意味などないのかもしれない。そんなことを考えながら......。

エーコ自身もこんなことを述べていた

薔薇の名前」というのは中世ではしばしば使われていた表現で、言葉の限りない力を意味するのです・・・・・これが数々の意味を受け入れる原型なのです。
(「ユリイカ」p.142)

映画『遠い山並みの光』を観ました

カズオ・イシグロ原作の映画、『遠い山並みの光』を観てきました。

(ネタバレはしません)

gaga.ne.jp


感想を一言でいうと、予想以上にすばらしかった!

俳優陣の圧倒的な美しさと、演技力、そして映像美には息をのむほど。

原作で随所に描かれる光と影も、二人の悦子の感情の表し方(隠し方?)も、そのまま生きていたように思います。

ただ、最後の数分間は、かなり脚色されていて、原作を読んで自分なりに解釈していたことが、完全に覆されてしまいました。

しかしながら、やはり完成度の高い、素晴らしい映画だったと思います。

映画を観終わるまで、あらゆる情報を見聞きしないよう努めていたので、

家に帰り、この記事を読んで、なるほどなあ~と腑に落ちました。


crea.bunshun.jp


監督は、最後のつじつま合わせには、相当ご苦労されたのではないかと察してしまいますが、イシグロ氏と監督の思いが調和し、新しい作品が生まれたのだと思います。

「(原作を書いた時は)何かを暴露することで、読者に疑問や衝撃を与えたいわけではなかったんです」

イシグロ氏のこの発言は、昔から変わっていません。

戦争や原爆の脅威を示しているのでないし、ミステリーでもない。

イシグロ氏の関心は、

「人が自分の過去の暗い部分、陰の部分にどう直面して、いかに隠そうとして、最終的にはどのように受け入れて、心の平静を持つようになるかという過程......」(週刊文春2001.11.8 号)

でした。

そこに、どんな感情があるのかということも、関心ごとの一つに挙げられていたと記憶しています。

テーマの裏に隠された、そのような繊細な部分は、ときとして沈黙に置き換えられ、謎や不気味さにつながります。

何を言って、何を言わないのか、言っているようで言っていないこと、聞いたことがあるけど確信できないこと。

イシグロの作品は、このようなベールに包まれた沈黙があり、そこから様々な解釈が生まれるといった点が、読者を魅了するのだと思います。

しかし、この映画のテーマは、

「今だからちゃんと伝えないと」

ということだったかと思います。

これは映画の中のニキの発言でもあり、イシグロ氏本人の言葉でもあるようです。

戦後80年が経過した今、記憶を伝えるには、昔と手法を変えなければならないと話していました。

その思いをしっかり受け止めたいですね。

時代が変化していくように、人間の心も常に変化するものです。

悦子が感じる「大きな罪」も、晩年はまた違った感情へと移ろいゆくのでしょうか。

そんなことを考えながら、いつかもう一度、この映画を観たいと思いました。


ranunculuslove.hatenablog.com

「呪術はお売りいたしません」ドリス・レッシング

「呪術はお売りいたしません」は、ドリス・レッシングの、アフリカ小説集、『老首長の国――ドリス・レッシング アフリカ小説集』 に掲載されている短編小説だ。ほんの10ページという短いお話で、読みやすく、ほのぼのとした気分になるのだが、読み進めるにつれ、非常に示唆に富んだ作品であることがわかる。本作は以前、池澤夏樹が自身の著書 完全版 池澤夏樹の世界文学リミックス で絶賛されていて、南アフリカにおける人種差別をテーマにした、クッツェーの『鉄の時代』との比較も興味深く、読んでみたいと思っていた。ドリス・レッシング(1919-2013)は、2007年にノーベル文学賞を受賞した。イギリスの作家であるが、幼い頃(1925年)南ローデシア(現ジンバブエ)に移住した経験をもつ。本書には、14編の短編、中編が収められていてるが、そのすべての舞台は、南ローデシアである。

*******************************

ローデシアの大農場に住む、ファークォール夫妻(白人)と、その子供テディ、そして雇われ料理人のギデオン(黒人)が主な登場人物だ。ギデオンはテディをとてもかわいがっていたし、夫婦からも絶大な信頼を得ていた。ギデオンは自分にも子供がいて、テディが我が子に対していじわるした時、それとなく注意をするが、差別的な暴言を吐かれると、なにも言い返せない。というより、何も言わなかっただけだ。これが現実なのだからと、悟りの境地に達していたのだろう。

ある日、テディが蛇に襲われ、目を負傷したとき、ギデオンは献身的に救護する。なんとかして毒を抜かないと失明してしまうと思ったギデオンは、薬草でもって驚異的な治療を施した。その噂は、村中広がり、ある日その秘法を盗もうと、白人の研究者がやってきた。しかしギデオンは草の名を明かさず、最後までしらばっきるのだ。わざと、とぼけたふるまいをしたり、いつも以上に訛りの入った発言をする。そして研究者を長距離を歩かせ、薬草を探すふりをして、ウソの花を渡して帰らせたのだった。ギデオンのこの演技は、ユーモアがあり面白くもあるが、その奥に隠された白人への恨みは強烈である。一瞬にして豹変する姿に、怖ささえ感じる。それもそのはず、なんでもギデオンは、有名な呪術師の息子だったのだとか......。

著者は序文で「アフリカに住むと、壮大な風景を前に、人間とは、多くの生き物と変わらぬちっぽけな存在にすぎないときづかされる」と述べ、加えて「わたしと同じように、楽しんで読んでいただければ幸いだ」言っている。「楽しんで」というところに、作者の意図が非常に伝わってくる。ドリスはこの作品を、あくまで楽しんで書いたのである。アフリカの社会への不信感と、人種差別の根深さという深いテーマを持ちながら、呪術師という存在もしかり、諦念の中でも、生き抜く方法を、ユーモアを交えて読者に教えてくれる。差別社会を前面に出さない、というところがクッツェーと違っている部分だ。

ギデオンは本当に呪術師だったのだろうか。どんな術を用いたとしても、守るべきものを必死で守り抜くという姿勢に、感動をおぼえた。著者のメッセージはそこにあるのだと思う。

ターニングポイントは田園風景の中にあった~『日の名残り』より~

英国執事スティーブンスは、なにげに過去を引きずるタイプのようだ。旅の三日目、彼は人生の転機 "turning points" について、思いを馳せる。原文では複数形になっていることからも、あの時がそうだったのか、いやあれこそが転機だったかもしれないと揺れ動き、ウジウジ考えるのだった。ここで回想するのは、思いを寄せていたミス・ケントンに関することばかりだ。具体的には、

①プライベートな時間に彼女がいきなり部屋に入ってきて、読んでいる本を見せてと強引に迫られたとき、断固として拒否してしまったこと。

②叔母の訃報を受け、悲しみに暮れる彼女に、お悔やみのひとつ言えなかったこと(言うタイミングは確かにあったのに、わざと違うことを言ってしまった)。

③ココア会議(二人で夜ごと、ココアを飲みながら仕事の話をする会)を、自ら強引に廃止したこと。

この中に、決定的なターニングポイントがあったはずだ、と考える。つまりミス・ケントンとの関係を、修復不可能なものにしてしまった原因を追求しようとするのだ。しかし、彼自身がそのあと言っているように、こんなことは所詮「後知恵」というものであり、あれこれ探し出すとキリがないのだ。(しかも人生におけるターニングポイントなんて、複数形にするほど多くはないですよね?)

ティーブンスはしかし、この一つ一つの積み重ねが火種となったことは、薄々わかっていたのだろう。もうあの夢のような日々は戻ってこない。そう悟ると、悔恨の念が次々と押し寄せる。あの頃の自分は、過ちはいつでも修正でき、そのような時間も無限にあると思っていた。彼女と離れて約20年、もし、この歳月が解決してくれるなら、来る彼女との再会は、実りあるものになるだろうと、悲しくも純粋な希望をもつのだった。

ところで「ターニングポイント」に注視してこの章を読んでいると、面白いことがみえてくる。『日の名残り』では、全体を通してイギリスの風景が印象的に描かれている。スティーブンスはこの壮大な景色を、偉大なる執事と照らし合わせているのだが、一方で、彼の今現在の心情を反映しているようにも思える。

この章ではドライブ中、曲がりくねった細い道がどこまでも続き、両側の生け垣で視界が狭くなっていた。ときおり刺す日光も、すぐに生け垣が邪魔して影を落とす。運転に慣れていないスティーブンスにとっては、この光と影のコントラストは目にも、そして精神的にも疲労させたに違いない。特に影は、物語の行く末を深く暗示しているように思う。案の定そのあと霧が立ち込め、視界がさらに悪くなったあげく、とうとう目的地にたどりつけなかったのだ。

実はこの日、彼はタビストックという町で泊まる予定だったが、農業祭の影響で、どの宿もいっぱいだった。そこである下宿屋の女主人が、数マイル先に親戚の宿があるからそこへ行くように勧められたのだ。その宿がどうしても見つからない。いやしかし、よく読んでみると、実は見つけられていたのではないかと思う。

The skyline was broken here and there by the shapes of barns and farmhouses some way away over the fields, but otherwise, I appeared to have left behind all signs of community.
(p.169. Faber & Faber. Kindle 版)

沼地の向こうに納屋や農家らしきものが見えていた。こここそが目的地のように思うが、違うと言い切るの何故なのか、なぜ、そのようなものは影も形もなかったと断言したのだろうか。結局スティーブンスはここでUターンし、違う道へ進んでしまった。そのおかげでガス欠になるのだが......

I recall turning the Ford round at about this stage and doubling back some distance in search of a turning I had passed earlier.
(p.169. Faber & Faber. Kindle 版)

この場所、つまり「Uターン」したその場所こそが、人生のターニングポイントだったのではないかと思わずにはいられない。あのとき道を間違わなければ、ガス欠も起こさないで済み、新たな出会いを呼び、違った人生が始まったかもしれない? そう考えてみると、やはり旅の途中の田園風景は、この物語を示唆する重要な役割を担っているだろう。ダーリントン卿に仕えていたあのころの勝利感と、今思い起こす痛烈な悔恨の念、このコントラストも興味深く、光と影、そしてときに靄となって彼自身を覆い尽くしていた。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)
The Remains of the Day (FF Classics) (English Edition)

(読書会メモ4)

物語を動かした人物と、動かされた人たち『日の名残り』より

カズオ・イシグロの『日の名残り』は、多くの人物が登場する。とりわけ、ダーリントン・ホールに訪れる、国際的著名人は、とても多い。なかにはジョージ・バーナード・ショーなど、実在した人物もいる。しかし個人の詳細に触れることは少なく、単なる名前の羅列に思えることもある。ダーリントン卿が、いかに偉大だったか、どれほど慕われていたか、を強調しているのだろうか。少なくとも、スティーブンスが回想の中で勝利感に満ち溢れるとき、そう考えてもおかしくはないだろう。しかし、その中には、キーパーソンとなる人物がいるのも確かである。それは、物語を大きく動かすような、鍵となる人のことである。

今回注目したのは、キャロリン・バーネット夫人。1932年の夏、彼女はダーリントン・ホールに何度も訪れていた。美しく、頭脳明晰で定評のあった彼女に、ダーリントン卿もひと目おいていたのだろう。ある日、彼女に連れられて、イーストエンドの貧困地区を視察した。大不況の影響下で、耐え忍ぶ住民たちを目の当たりにした卿は、苦悩に陥る。そして、彼女が属する反ユダヤ組織「黒シャツ組織」(反ユダヤ)に加担するようになり、ユダヤ人召使2人の解雇を決意する。このことが原因で、スティーブンスと、ミス・スケントンの間に、取り返しのつかない溝が生じるのである。

このように、イシグロの作品には、確かな信頼性が構築されていない段階で、いとも簡単にその人の思想や言葉に影響されてしまうといった場面が、しばしば見受けられる。たとえば『浮世の画家』の浮世絵師、小野益次も、松田という人物に影響される。状況はよく似ている。松田は、小野を戦後の貧困地区へ連れて行く。この悲惨さをよく見よ、と言わんばかりに小野の目に焼き付けた。これを機に、小野はプロパガンダの画家へと豹変する。松田という、信頼性の薄い人物に、人生を狂わされてしまったのだ。物語を大きく動かしたという点で、キャロリン・バーネット夫人と松田は、同一人物だといえる。

では他の作品はどうだろう、こじつけかもしれないが考えてみた。短編『日の暮れた村』では、主人公を道案内するロジャー・バトンが登場する。しかし教えてもらったバス停には、バスが永遠に来ない。『遠い山並みの光』は、佐知子が恋したアメリカ人がいて、信頼性が薄いにもかかわらず、彼に振り回される。『わたしたちが孤児だったころ』は、これは逆説的かもしれないが、探偵のバンクスが、上海へ行ってきたという見知らぬ人物に、アキラに会わなかったかと素っ頓狂な質問するところが、主人公の未熟さを象徴していた。『充たされざる者』では、ラストシーンの電車の中で、無名の人の言葉が主人公の傷心を癒す。『忘れられた巨人』は、知り合ったばかりの船頭の不気味な発言が、ベアトリスの頭から離れない。『わたしを離さないで』では、コテージで出会ったクリシーとロドニー、ポシブル騒動が印象的だ。彼らの言葉を信じ、ルースのポシブル(親のような存在)を探しに行くのだが、結果的には失敗に終わる。自分たちの親は、普通の人ではなく、どぶやゴミ箱の中にいる「クズ」なんだと、諦めに近い悟りを得るのだった。

こうして見てみると、キーパーソン側の邪悪さというのは、はさほど感じられない。問題なのは、簡単に影響を受けてしまう主要人物の心の弱さや、孤独感なのだろう。良く言えば、純粋無垢な人たちだ。では、スティーブンスはどうなのか?悪影響を受けてしまったダーリントン卿をそばで見ていて、どう行動するのか、、、、。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)
The Remains of the Day (FF Classics) (English Edition)
(読書会メモ3)