Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

ニコライ・ゴーゴリ『鼻』

なんとなくそこにあったから読んだ本。
と言ってはお恥ずかしいほどに、これが本当に面白くて、コメディドラマの映像が浮かんでくるほどだった。


短編小説『鼻』("Нос" , 1836)



舞台はロシアのペテルブルグ。
青天の霹靂ともいえる朝の出来事は、カフカの『変身』とは似て非なるものである。


簡単にいってしまえば、
ある朝起きたら、鼻がなかったという人のお話。


その名はコワリョフ、八等官。彼の鼻を発見したのは床屋のイワン。イワンがある朝、妻の焼いたパンを切ると、なんとその中から、客であったコワリョフの鼻が出てきたというわけだ。


鼻が失くなった人と、鼻を見つけた人。慌てふためいた2人は、各々が珍行動にでるのだが、これがとても面白い。


人は動揺すると、というか、めったにない奇妙キテレツな経験をすると、こういう心理になるのだなあと思いながら、一歩引いて終始見守る感じ。一緒になってドキドキハラハラというよりは、冷笑と悲哀がともなう読書体験だった。


共感のしようがないこの感覚は、どうも2人を取り巻く人達の反応にそっくりだ。


例えば、イワンは妻に、どこで(鼻を)ちょんぎってきたんだい?警察が来たら嫌だからどこかへもって行け、などと言われたり、


コワリョフが、鼻の捜索記事を出してもらうため新聞社へ訪れると、とんだ災難ですなあと一笑に付されてしまい、鼻がないのに「煙草でも一服どうですか?」とすすめられる。


「もしや、鼻をなくされました?」といって、普通に鼻を届けにくる警察官。


医者へ行くと「こりゃもうだめだ、下手なことしないほうがいい、(鼻を)つけろと言われればつけますけど、、、(どうされます?)」「アルコールに浸しておいたほうがいい値がつきますぞ」といわれる始末。


うろたえる2人とのギャップが顕著で面白い。


そしてなんといってもショックだったのは、ひとり歩きした鼻が、自分より身分の高い紳士の姿でコワリョフの前に現れ、侮辱されること。


これは未来のコワリョフの姿なのだろうか。
自分の社会的地位が奪われようとする悪夢だろうか。
持ち場を離れ、のし歩く鼻氏による政治的風刺だろうか。
現実味がなくなっていく社会への警告だろうか。
近々ありえないことが起こり得るという暗示だろうか。


はたまた妖術の仕業?


ちなみに本作は宗教的な解釈もあるようだ。
まず鼻がなくなったのは3月25日、この日はキリスト教でいう「受胎告知の日」。そして鼻が戻ってきたのは4月7日で「復活祭」の時期にあたる。難しいことはわからないが、床屋なのに燕尾服を着ていることや、パンを切り分ける様子などに風刺的意味合いがあるのだろう。個人的にはイワンの手が臭いと言われる理由もちょっと気になる。


ともあれハッピーにも、鼻は無事元さやに。
なぜ?という要の部分は、雲隠れならぬ霧隠れのようである。


しかし文学的にも高い評価のあるゴーゴリの短編。さすがに最後の部分は重みがあるなあと感じる。深読みするのもよし、しなくても充分に楽しめるお話だ。


短時間の読書で笑いたい、または現実の向こう側へ連れてってもらいたい、そんな方におススメの一冊です。
その後は『外套』も読んでみよう。


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