Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『イワン・イリッチの死』トルストイ

悲劇もあまりに微細に書くと、喜劇になる。悲しみが、笑いに転化する、、、」
とは、まさにこの作品のことではないかと思う。
(『百冊で耕す』近藤康太郎著、第四章「わからない読書」P.105 より)



原タイトル:Смерть Ивана Ильича, 1886


本作は、黒澤明監督の映画『生きる』(1952) の生みの親であり、この映画を英国でリメイクしたのが、カズオ・イシグロ脚本の『生きる・Living』(2022) である。


ロシア→日本→イギリスと、時空を超えてグローバルに継承されてきた物語であるが、はたしてカズオ・イシグロが『イワン・イリッチの死』を意識していたかというと、必ずしもそうではなさそうだ。


特に主人公の感情表現においては、一つ飛ばしではなく、イシグロはあくまで黒澤映画の日本人の特質に魅せられ、抑制された英国紳士風に脚色したものと思える。


そのくらい、トルストイの感情描写は激しく、恐ろしく、生々しい、イシグロ作品とは似て非なるものである。しかし、そこにちょっとしたおかしみがこみ上げ、悲劇が喜劇に転化するような、不思議な魅力を感じさせる。


この3作に共通する大まかなあらすじは、ごく平凡な一サラリーマンが病気になり、わずかな余命をどう生きるか、なぜ生きるかを自問し、自答し、孤独の果てに死するまでの内面的葛藤を描き切ったもの。


しかし本作が他と一線を画すのは、冒頭部分、主人公イワン・イリッチがすでに死んだところからスタートするところだ。


もう一度言うと、主人公なのにもう死んでしまって、いないのである。


あいつが死んだらしいぞ、、、、


仲の良かった同僚も、新聞の訃報欄で初めて知る。何の病気だったのかも知らない。死んだのは俺ではなくあの男でよかった。お悔みに行くのは遠くて億劫だ。あいつの後任は誰に就かせよう、、、などと無機質、無関心な人たちばかり。妻でさえ、苛酷だった看病を暴露し、国庫からどのくらいお金が下りるかが一番の関心事であった。


はたしてイワン・イリッチは、周囲に憎まれるほど悪人だったのだろうか?


(ここで、時は数か月前に巻き戻され、読者はイワン・イリッチが息を引き取るその瞬間まで、傍観することになる)


そんなことはない。45歳、中央裁判所判事のイワン・イリッチは、みんに好かれる真面目な人だった。仕事を淡々とこなし、妻には尻に敷かれながらも、平凡に生きていた。


そうなったのには理由がある。結婚生活は一年後娘が生まれたあたりから、妻の我がままに振り回されるようになり破綻状態。彼ははますます仕事に精を出すようになり「勤務」という別世界へ逃げ込むようになった。


そうして自分を守り、自分の義務を果たしていた。世間に認められ出世するためには「勤務」同様、夫婦間でも一定の態度をとることが大事だと考え、あくまで水面下で妻と戦ってきたのである。


医者に余命を告げられて、床に臥すようになってからは夫婦間の亀裂は深まるばかり。


イワン・イリッチは肉体の苦痛に加え、誰からも同情されない孤独に苛まれる。死にたくない!いったい自分が何をしたというのだ、人生が無意味なものであっても、なぜ苦しみながら死ななければならないのかと、ついに号泣する。


そして、妻の形式上の介護に憎悪を感じ、怒りをぶつけるのだが、かえってきた言葉は
いったい私がなにをしたっていうの?」だった。


この分かり合えなさといったら、、、
絶望感と滑稽さは、皮肉にも表裏一体である。


自分の今までの生き方は誤りだったのではないか。問い続ける「本当の事」。


そしてついに悟るのである。
これは悲劇なんかではない、苦しまないで生きよう。気持ちよく愉快に生きようと。それは周囲の人にとっても同じだ。自分は苦しみもがく姿を見せつけることによって妻や娘を苦しめているのだ。この苦しみを早く取り除いてやることが今の自分の義務ではないか。俺が死んだらみんな楽になる。だから実行(死)すればいい、自分も逃れられる、なんという喜びだろう。そう思うと同時に、とつぜん身体から痛みが消え、恐怖も消え、光が射し、イワン・イリッチは天国へ昇っていったのだった。


ところで著者(語り手)は、一度死んだことがあるのだろうか、と思うぐらい、死の瞬間までの感覚描写が緻密である。わたしたちにも、いつか追体験するときがくるのであろう。


しかしなんだか笑ってはいけないお葬式に参列したような読了感。
シニカルでアイロニーに満ちた作品、中篇なので、トルストイ入門書として最適なのではないだろうか。


こちらにも収録されています。



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