Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

"Waiting for J"『Jを待ちながら』 Kazuo Ishiguro

Waiting for J『Jを待ちながら』(1981 ) は、
カズオ・イシグロ、デビュー前の短編小説です。


A Strange and Sometimes Sadness『奇妙な折々の悲しみ』と
Getting Poisoned『毒を盛られて』とともに、
Introduction 7 : stories by new writers , (1981) に含まれています。
和訳本は現在のところありません。


この物語は、近年感じるカズオ・イシグロ作品の牧歌的イメージからは程遠く、背筋も凍るような怖さを孕んでいます。


過去と現在を行き来し、読者を惑わせ、悩ませ、最後に置き去りにされた感、、、、読了後はしばらく悶々とし、何度読んでも新たな解釈が生まれる、大変興味深い作品です。


簡単なあらすじ

大学教授で彫刻家の「私」は40歳の誕生日を迎え焦っていた。
「J」がやってくるからだ。
正直怖い。


私が11歳、J は15歳のときに二人は出会った。
Jは衝動的かつ驚異的な行動で、いつも私を脅かしていた。


J は父のように年をとりたくないと言っていた。
現状にも嫌気がさし、トルコへ行くといって、17歳で村を出た。
その数日前、Jは私に協定を結ばせた。


40歳になったら、お互いを殺し合おう


ただし2人は4歳年の差がある。
この問題をどうするか、決めかねているうちに、二人は別れる。


大人になった私は、
約束を果たす為、苦労して彼の住所をつきとめた。


Jの40歳の誕生日当日。
私はプレゼントのトルコ製のナイフを持って部屋を訪ねる。


Jは約束を忘れたふりをしていたが、焦りの表情は隠せない。
張りつめた対峙の末、
私はJをナイフで斬りつけた。


Jはうめき声ひとつあげなかった。


4年後、
ついに私の40歳の誕生日がきてしまった。
先日彫刻刀で切った小指が疼きだす。


Jは来る。
必ず来る。


テーブルの上に、即席の三種の凶器を用意してみたが、
気休めにしかならない。
恐れと期待が交錯し、奇妙な焦りが続く、、、


He will come、、、
(終わり)

繰り返される言葉と状況

この物語の曖昧さと不気味さは、カズオ・イシグロ特有のものである。おなじく短編『A Family Supper1984 もそうであったが、登場人物が死んだのか死ななかったのか、自殺なのかそうでないのか、はっきりとは示されていない。そこは読者の想像に委ねられるわけだが、何度読み返しても判然としない。その代わりに気づくことといえば、繰り返される言葉、繰り返される状況、行動といったものである。これはトーマス・マンの『トーニオ・クレーゲル』にもみられるライトモチーフという技法に近いのではないかと思う。ライトモチーフとは、通常オペラや交響詩などの楽曲中で展開されるものであるが、少し変化を入れながら繰り返される旋律(描写)に、登場人物の感情や状況の変化が反映され、文学にも効果的に用いられるものである。本作では、ウサギの目の動き、ナイフで指を切りそうな状況、向かいの部屋に住む娘、廊下の足音、女神などなど、短い物語の中でも繰り返される描写が多数ある。とすると、読者が目を向けるべきことは、登場人物が死んだかどうかということよりも、語り手と「J」の内面の変化、大人になるまでの行い、また、二人の異常な関係性といったことなのだろう。

重要キーワード「トルコ」

語り手が「J」にプレゼントしたトルコ製のナイフ。これはいったいどんなナイフだろう。「J」はしきりにトルコへ行きたいと言っていたし、もちろん喜ばれるものとして選んだのだと思われるが、それだけだろうか。ちなみにトルコの「Turkey」「Turk」を辞書で調べてみると、いろいろと見えてくるものがある。俗語として「(演劇・映画などの)失敗作」「期待外れ」「ばかなやつ」「無能な」というのもあるし、Turkは「狂暴な青年(少年)」「手に負えない人」「残酷な」などの意味。さらには偃月(えんげつ)刀をもったトルコ人のイメージから「首切り係」という意味もあるそうだ。ということは、トルコ製ナイフとは、あの三国志に登場する偃月刀のようなものではないかと想像できる。およそ60センチで、バナナナイフのような、というごくわずかな情報ともマッチする。もうひとつは「J」は役者の仕事をもらったと話していたが失敗に終わったことを暗示していると考えらえる。つまり「Turkey」「Turk」の俗語としての意味が全てこの物語にあてはまるのである。「トルコ」は恐るべし衝撃キーワードである。問題はそのトルコ製ナイフをつかって「J」を斬ったのかどうか、、、であるが、そこは謎。

追う追われるの関係

「J」と語り手との関係は、一見すると「親分」と「子分」のように思えるが、大人になるとその関係性は逆転している。語り手は少年の頃「J」に追いかけられ必死で逃げていたが、心理的な後追いをしていたのは語り手のほうだったのではないか。その思いの強さが大人になるにつれ執着や依存という形で表れている。「J」が行きたいと言っていたトルコへも行っただろうし、「J」より優位に立とうと努力してきた。いったん疎遠になってもなお互いを意識し続けているというのは『わたしたちが孤児だったころ』のバンクスとアキラの関係性を彷彿とさせる。「J」への執着は、あの約束を果たしたあとにも及ぶ。約束を果たした後、なんと「私」は「J」の部屋に住み着いた(引っ越してきた)のだ。そう思って間違いないだろう。その心理とはいかほどに。少年どうしが交わした「殺人ごっこ」は、大人になり「恐怖の心理ゲーム」へと変貌を遂げる。

救いの女神

作中幾度も強調される女神像とユダヤの小娘。最後にはこの2人を同一視したような語りがありゾっとさせられる。語り手にとって女神とは救いの象徴であったのだろう。なぜなら「私」は約束を果たしたあと、後悔と失望に苦しみ、孤独に押しつぶされそうだったからである。女神像を彫刻で何体も完成させてきたのは、罪を償う行為、許しを乞う行いであったと思われる。そうやって4年間をやり過ごし、女神に慰められ、自己を正当化してきたのだろう。

記憶と忘却

カズオ・イシグロ作品全体のテーマでもある「記憶」と「忘却」の萌芽が、デビュー前の作品から確かに存在する。少年期の記憶、数年前の記憶、そして現在、この三つの時空を行ったり来たりすることになるのだが、曖昧な記憶と確かな記憶は本作でもはっきり区別されている。ただ『日の名残り』や『浮世の画家』のように、不都合な事柄から目をそむけるために曖昧な記憶として表現したり、記憶を故意に作り変えたり(これを信頼できない語りと言われている)しているのとは違って、もっと純粋なもののように感じた。つまり、忘れていること、覚えていることに嘘はないように思えた。

虚しさしかない結末

最後に語り手は部屋の中を見渡し、物思いにふける。これまで培ってきたもの、多数の本や彫刻、海外製の家具、それらはつまり「J」より優位に立つために成し遂げてきたものであるから、じっと眺めることによって、自己を奮い立たせる。「J」との殺人&心理ゲームに勝ったのだという満足感と、愚かな自分への慰め。そして「J」の霊体(?)を恐れるものの、期待するのは「恐れ入りました」「ゲームに負けました」という「J」の言葉と敬意なのだろう。
ゾゾゾッ。




併せて読むと面白い3作品

①『サー・ガウェインと緑の騎士
J・R・R・トールキン著 ; 山本史郎訳 (2019)
(原タイトル:Sir Gawain and the Green Knight, 14世紀後半、作者不明)
首切りゲーム、果し合いのお話。
映画『グリーン・ナイト』の原作です。


②『ゴドーを待ちながら
サミュエル・ベケット著 ; 岡室美奈子訳 (2018)
(原タイトル:Waiting for Godot ,1952)
オマージュ元と考えられる作品(戯曲)です。
2人の男が、来ることのないゴドーを待ち続けるお話


③『夷狄を待ちながら
J.M.クッツェー著 ; 土岐恒二訳 ( 2003 )
(原タイトル:Waiting for the Barbarians , 1980 )
静かな町に夷狄(いてき)がやってくるとの噂が。



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2021.5.22記
2023.2.18改稿