Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『奇妙な折々の悲しみ 』"A Strange and Sometimes Sadness" Kazuo Ishiguro

A Strange and Sometimes Sadness (1981)は、
Introduction 7 : stories by new writers” の中に収録された、カズオ・イシグロ、デビュー前の短編のひとつ。


イースト・アングリア大学時代の習作で『遠い山なみの光』(A Pale View of Hills, 1984)の試作版でもある。


未邦訳のためタイトルは不確かだが、「ユリイカカズオ・イシグロの世界(2017)では『奇妙な折々の悲しみ』と表記されている。




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あらすじ

長崎から英国に移り住んだミチコには、二人の娘がいる。
次女のヤスコが帰省した3日間、戦時中の長崎時代を回想するお話。


ヤスコという名は、長崎時代の親友の名前からとったもの。
区別するために親友ヤスコは「first Yasuko」や「another Yasuko」と表現される。


親友ヤスコは父親(キノシタさんと呼ぶ)と二人で住んでいた。
母と兄は亡くなっていた。
婚約者(ナカムラさん)は出兵中で、時折来る手紙を待ち続けている。
ミチコはヤスコの父になつき、ナカムラさんへも密かに想いを寄せていた。


ある日、ヤスコは父を置き去りにして結婚することに罪悪感があること、そしてナカムラさんが戻ってこなければいいと思っていることを打ち明け、ミチコを驚かせる。


そんな風に考えるべきではないと反論するミチコとの間に不穏な空気が漂う。


その時、恐ろしいことが起きた。
ヤスコの顔がみるみる変化し、恐怖と震えで半狂乱のような表情になった。
不気味な目つきでミチコを見ていたのだ。
すぐに元の表情に戻ったが、ヤスコには自覚がなく、動揺するミチコを不思議に思う。


翌日、長崎に原爆が投下された。
ヤスコとその父親は被爆死する。
婚約者も戦地で死亡していた。


ミチコはいま振り返る。
あの時のヤスコの表情は、原爆投下の予兆であったのか、あるいは自分のヤスコへの嫉妬心が彼女の顔に写しだされたのでないか。ヤスコが生きていたら、今頃どうしていただろう。


娘の帰省がきっかけとなり過去に想いを馳せてみたが、英国での暮らしは自分に合っていて日本に戻る予定はない。読書や絵をかいて過ごす穏やかな日々を愛し、今後もここで生きていくのだという強い意志が感じられる最後である。

感想

戦時中の女性の生き方についての葛藤がよく映し出されている作品である。穏やかな父と素敵な婚約者がいて、結婚→出産が女の幸せと思うヤスコと、それに嫉妬しながらも、奔放で仕事や趣味に生きがいを求めるミチコ。相反する二人の関係性は『遠い山なみの光』に登場する二人の女性の原型なのだろう。


ミチコがどういう経緯でイギリスへ渡ったのか、長女はどこにいるのか、夫はなぜ亡くなったのかは詳しくかかれていないが、そのあたりは『遠い山なみの光』にも引き継がれているので、ぜひ2作品を読み比べてみてほしい。


ところで、原爆投下前日に見たヤスコの不気味な表情とは、どんなものだったのだろうか。ミチコは今この出来事を思い出すとき、心に感じる複雑な思いを、以下のように表している。

My memory of her is not clouded with nostalgia, nor dose it bring me pain. Rather, it brings me an oddly disturbing kind of sorrow ,a strange and sometimes sadness I find hard to place.


ここにはタイトルになっているフレーズが含まれていて、物語全体を要約しているともいえる重要な部分だと思われるが、非常に曖昧で理解しがたいものがある。


直訳すると「彼女との想い出は、故郷を思う心で曇っているわけでもなく、苦痛を感じるものでもない。むしろ妙に不穏な類の悲哀を感じる。奇妙な、そして時にやり場のない悲しみである」


言い換えるとすると、こういうことだろうと思う。あのころヤスコに嫉妬していたのは確かだが、自分は己の人生を貫いてきた。そのことで傷ついたわけでもないし後悔もしていない。日本に帰りたいとも思わない。もう忘れかけていた過去のことであるが、ふとヤスコのあの表情を思い出したとき、言いようのない悲しみを抱いた。戦争に翻弄され生きるしかなかった時代、あっという間に失った周囲の人びと、こみあげてくるやり場のない感情が、後にも先にも経験したことのない悲哀となって押し寄せてきたのだと。


それにしてもなぜ、娘(しかも次女)にヤスコと同じ名前をつけたのだろう。その行為こそが、忘れてしましたい過去を否定しているのではないか。そんな矛盾を感じた。


読み進める上でも同名人物が存在すると、どうしても混乱してしまう。イシグロはそこにどんな効果を望んだのだろう。親友ヤスコと娘のヤスコの比較など、考察する部分がまだまだありそうだ。


本作は唯一イシグロが原爆投下の日を描いた作品である。とはいえ詳しい描写はされていない。他の作品同様、主に人の感情を描くための舞台設定であり、原爆投下の悲惨さを伝えたかったわけではない。それでもこの作品が英語で書かれイギリスで発表されたことは興味深く、デビュー作『遠い山なみの光』同様、世界中で注目を浴び続けている。


随所に現れる鮮明な記憶と曖昧な記憶、それは「残しておくべき記憶」と「忘れたほうが良い記憶」に結びつくだろうか。すでにデビュー前から「記憶」というテーマに着手していることが窺え、本作はその後のイシグロの作品全てにおける萌芽的作品だと感じた。


私は今回2年ぶりに再読してみたのだが、気づくと涙を流していた。物語を語る現在のミチコの気持ちにかなり同情してしまったのかもしれない。読む時々で、思うこと感じることが違う、読むたびに新たな気づきがある、そんなところがイシグロ作品を読む醍醐味であると改めて思った。




参考文献




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2021.5.26記
2023.9.26更新