Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

デカダンス文学の奇作!!『さかしま』 J.K.ユイスマンス

とんでもない文学に出会ってしまった。
J.K.ユイスマンスの『さかしま』



原タイトル : À rebours, (1884 , フランス)


少々難解ゆえ、腰を据えて三読した。
ユイスマンスの博識と感性から成る小宇宙、
「人工楽園」
これを神秘といえようか、、、


全てを理解できるわけないけれど、
それはそれで、
無理に理解しようと努めなくてもいいように思うし


ほんの一瞬でも、その魅力に浸れたら、
読む価値があったといえるのではないだろうか。


そしてその瞬間があれば、
何度も読んでしまうような魔術にかかってしまう。
そんな小説である(と思う)。


デカダンスとは

衰退」を意味するフランス語・・・19世紀末のフランスに興った文学的傾向をさし、世紀末芸術象徴主義と同義に使われる。ボードレールを先駆とするベルレーヌ,マラルメユイスマンスら象徴派の詩人たちによって代表される。・・・・伝統的な規範や道徳に反発して、病的な情調を重んじ、極端に洗練された技巧を尊び、異常珍奇退廃的な美を追求する耽美的な傾向を示す。
(ブリタニカ国際大百科事典より)


というわけで、タイトル『さかしま』は、デカダンスそのものを名乗っているのであるが、それに加え、英語タイトルの ”Against Nature” からも想像できるように「自然に抗う」「人工的な」という意味も内包する。



とはいえ、それだけではないような気もする。
なにが「さかさま」なのか、丁寧に読みこんでいくと、ちょっと違った観点も浮上してくる。


不自然にも、とつぜん逆走して過去の記憶を呼び覚ます一人の男。危うくノスタルジーに浸ってしまいそうになるが、その行い自体を嫌悪し、目を背け、苦しみ悶える。


彼は、自分の快楽や芸術観にこだわり抜いた、完璧ともいえる楽園を手に入れたというのに、なぜ苦しみ、なぜ幸福でなかったのか。


この矛盾する二重の「さかさま」にどうしようもない違和感と、悲哀をおぼえる。


本作から多大なる影響を受けたとされる、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』と同類の印象である。



***(ここからネタバレあり)***

色彩感覚と黄金亀

貴族の末裔であるデ・ゼッサント(30歳)は、幼少期から繊細で病弱だった。17歳で両親を亡くす。神学校を卒業後、仲間と豪遊、女性との快楽に溺れる。しだいに人間嫌いが増し、財産もつき、神経症を患った。


そこで、住み慣れたルウルの城館を売り払い、老人召使二人とパリ郊外の一軒家へ移住する。建築家を慎重に探し、自らも手を加え、奇怪な人工楽園を作りあげた。孤独を愛するデゼッサントの、籠城生活の始まりである。


部屋の内装は異彩を放つ。青とオレンジを基調に、壁や床は、モロッコ革や野獣の皮で装幀し、書棚にはラテン文学の本をずらりと並べる。食堂は、さながら汽船の船室であり、その付近は水族館になっていて、内部の水に色を付けた。


デ・ゼッサントは特にオレンジ色のこだわりが強く、このような部屋で、夜な夜なその色のあらゆるニュアンスを研究した。


ニュアンス研究??ちょっと面白いな。


彼は爪を噛みながらこう考えるのだ
「釣り合わない色調の結婚をなんとかしたい」


そこで彼は亀を購入し、亀の甲羅に、アメジストやルビーといった宝石を詰め込み「黄金の鎧」を造り上げた。そうして絨毯の上で動く宝石を眺め、悦に浸るのだった!


口中オルガン

これは本当に、並外れた発想力だと思う。
デ・ゼッサントは、口の中で楽器を奏で、ひとりオーケストラを成立させた。


といっても「でこぼこフレンズ」のケンバーンをイメージするのは、、、ちょっと違う。



   



どういうことかというと、食堂にある小さな酒蔵の羅列を、オルガンに見立て、いくつかの樽から取り出す一滴一滴の酒を、鍵盤とする。そして口の中で調合しながら旋律を奏でるという、神秘で孤独な、空想上の営みである。


あるいは酒の味覚から楽器を作り上げることもした。たとえば辛口のキュラソオはクラリネット、ブランデーはチューバ、ヴァイオリンなら、、、ヴィオラなら、、、というふうに。


彼はシューマンシューベルト、それに悲しい聖詩歌を愛していた。ほろ酔いの夢想の中で、その豊かな旋律に魂を震わせていたのだろう。
  

ゆきてかえりし、 空想の旅

デ・ゼッサントは、ディケンズの小説を読んでから、謹厳なイギリストいう国に思いを馳せるようになった。と同時に、教会が非とする邪悪な行為、性的欲求が彼の狂った精神に襲いかかり、夢想し、へとへとに疲れていた。


歩きたい、他人と話したい、という熱望にかられ、長い旅へ出る決意をする。行き先はイギリスしかないだろう。すぐに彼は旅の支度をし出発するのだが、、、


汽車を待つ間に、パリ駅で経験したことが、彼の欲望をひっくり返す。


濃霧と雨の中、書店で旅行案内を買い、駅の酒場で一休み。そこにはイギリス人が群がっていた。小説に出てくるような光景に身を置き、ロンドン市民になったような気分になる。その後入った料理店ではイギリスの味を堪能した。


はて、椅子に座ったままこんなにすばらしい旅行ができるというのに、わざわざロンドンまで足を運ぶ必要があるだろうか。


そういえば、以前体験したオランダの旅も、理想と現実の狭間で落胆したのだった。自分はもう味わったじゃないか、ロンドンの霧雨、本で見た美術館、料理、イギリス人、その雰囲気に満足したじゃないか。


そうだ、今すぐ帰ろう、あの楽園へ。


*このエピソードが引用されている書籍がある。
アラン・ド・ボトンの『旅する哲学』( 2004)。
エッセイ風でとても面白い。

嗅覚

デ・ゼッサントの人工嗜好は、嗅覚にも及ぶ。


生花の香りとは極めて異なる香水を好んだ。香水は芸術作品であり、文学の言葉と同じぐらい暗示的で変化に富む。香りの文体を解読するには、文法を学び、文章成法を研究し、その道の大家の作品と比較検討し、分析してみることが必要だと考える。


ある日彼は、匂いの夢想をさまよい、このような問いに着地する。
「人口の牧場に、液体を加えるとたちまち人工の花が咲くのではないか」


その瞬間、ついに香水や芳香剤を部屋にまき散らし、逆説的なひとつの自然を造り上げてしまった。


そうして彼は眩暈を起こし、失神した。


文学評論

「地上に生きるとはまさに一つの悲惨である」
彼が言うように、このショーペン・ハウアーの言葉は正しいのだろう。楽園での生活は徐々に廃頽への一途をたどっていた。


彼は書物を手にとり、そこに身を委ねた。彼の愛する書物は、ラテン文学のほか、ショーペン・ハウアー、ボードレールエドガー・アラン・ポーなどであった。また詩篇もよく読み、絵画的文章をかく作家ペトロニウスも好んだ。


逆に嫌いな作家も多く、このあたりは永遠と、文学評論と批判が続くのだが、知らない作家も多く、ユイスマンスの博識ぶりがうかがえる。必然的に訳注も圧巻のボリュームになっている。各章には、最低一つは文学作品や、書物に関する記述があり、どうやらエピソードにからんでいるようだ。


ところでデ・ゼッサントは、度々書棚の本の乱雑さが気になり、整理したり、入れ替え作業をするのだが、これは何を意味するのだろう。


自分の信じてきたことへの疑問、喪失、不安、後悔、などを一旦整理し、心の総入れ替えをしているのだろうか。一冊の書物が、そのまま彼の現在の心を表すの鏡とするならば、すぐにでも成し遂げなければいけない義務のようなものであったのかもしれない。そんなことを思いながら、読者としては、もう見守るしかないのである。

絵画鑑賞

デ・ゼッサントは、絵画にもこだわり抜く。
匂いと同じく、巧緻で繊細な、暗示的な作品を求めた。


ギュスターヴ・モロオの「サロメ」と「まぼろし」を手に入れ、その幻想的な絵を何時間も眺め、瞑想する。聖書や神話を題材にしていながら、聖書の伝統に属していないような「カトリック的かつ官能的な苦悩」に魅せられ、その象徴的意味を探ろうとしていたのだ。

サロメ
まぼろし

      (ともにWikipediaより)



すでに彼の精神は壊れかけ、世俗との関りを全て断ち切っていたが、このあたりからなんとなく、彼の苦しみの種が見えてくるような気がした。


信仰

結局のところ、彼を心底苦しめていたもの、廃頽へと向かわせたものは宗教だったのだろう。信仰への反撥や懸念から、彼は何度も信仰を捨てようとするが、幾度となく襲ってくるのは過去への憧れ。神学校に通っていた頃の、あの美しい聖歌や儀式の華美である。


確固なる信仰をつかみたいのに、望めば望むほど、キリストの訪れは遠のいていく。自分には不可能なんだと悲観し「人工楽園」という名の、自己欺瞞の世界にへと逃げ込んでいたのだ。

パリへ帰還

これは本当に自分なのだろうか。
鏡に映った我が身を見て、デ・ゼッサントは恐怖におののき、吐き続けた。


医者には、いまの生活をやめて、パリに戻り、普通人と同じ生活を楽しまなければ、神経症は治らないと宣告される。世間が面白がることは自分には面白くないというのに?もう何もかも、おしまいではないか、、、。


しかし医者による強制終了で、雷に打たれたかのように、悟りを得ることができたのだ。


「自分の心を和らげ得るものは、未来の生活における不可能な信仰のみである」と。


うーん、やはり信仰は不可能なのか、、、
これぞ「さかしま」ではないか、、、


最後は、デ・ゼッサントのこんな悲痛な叫びで、幕は下ろされる。

主よ、疑いを抱くキリスト教徒を憐みたまえ
信じようと欲して信じられない信仰者を憐みたまえ
たった一人で夜の中に舟出していく人生の罪囚を憐みたまえ!

感想

なんだかわからないけど、素晴らしかった。
すべては「さかしま」であった。「神秘」であった。
ストーリー展開は、ほとんどなく、ひたすらデ・ゼッサントの生活と嗜好の様を描き切っているのだが、不思議とやめられない。またそのうち読み返すだろう。


しかしこの素晴らしい文学を、私は日本語で読んでいるのであって、この高揚感は、難解な翻訳をされた、澁澤龍彥氏の恩恵の賜物である。あとがきによると「私のいちばん気に入っている翻訳」であり「楽しみながら苦労するという・・・・翻訳という作業の、醍醐味をきわめた」と記されており、翻訳人生においても稀な体験だったことが窺える。


ときおり芸術の場面で、日本美術のコレクションや、日本産のクスノキの彫刻など、日本にまつわる描写があって、ユイスマンスの繊細さがそこに表されているような気がした。澁澤龍彥氏と交流のあった三島由紀夫が、本作へ向け書評を書いたそうだが、そのあたりも触れられているのだろうか、ぜひ読んでみたいと思った。今度探してみよう。


*『さかしま』の秘話が掲載されています↓


ranunculuslove.hatenablog.com