Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

カズオ・イシグロ読書会が始動!

今月から始まりました~「カズオ・イシグロ読書会」。前職のつながりでお誘いを受け、ありがたくも参加させていただくことになりました。院生さん学部生さん数人と私という、ちょっとありえない構成ではありますが、個性豊かな研究者たちの文学的語らいに、たいへん刺激を受けました。


第一回目は『遠い山並みの光』(A Pale View of Hills , 1982 ) の第一章を深堀り!


不気味なんですよね~この作品。
日本で翻訳された当初は『女たちの遠い夏』 (1989) とう題名でしたが、その後 『遠い山並みの光』(2001) に改められたということも不気味さのひとつにあげられると思います。その経緯や理由については、訳者があとがきで述べられていますのでご興味ある方はご参照ください。とりわけ原題に含まれる 「pale」という語はなんとも不気味で、なにかを示唆していると思われます。作中でも忘れたころにふと現れる 「pale」。そこに注目して読んでみると、なんともいえないゾクゾク感が増して自分自身が「pale」になってしまうほどです。


第一章からすでに感じるのは、語り手エツコの記憶の問題。いったいどれぐらい信憑性があるのかということが話題にのぼりました。沈黙、かみ合わない会話、不自然な英語、視点の動きあるいは速度、特定不可能な人物、人違い(?)など、疑えば疑うほど見えてくるもの、逆に見えなくなるものがあります。興味深いことに、エツコの記憶は人物や出来事そのものよりも、その背後にある風景や気候、季節だったりします。実はそれすら疑わしいこともあり、すっきりしないのですが、そもそも人間の記憶なんてそんなもではないでしょうか。イシグロ自身も過去を思い出すときは、画として浮かびあがることが多いと、どこかで言及されていました。曖昧だからこそ様々な解釈が生まれるのですね~。いっそ全てを疑って読んでみるのも面白いかもしれません。


もうひとつ個人的な気づきとしては、あるものとあるのものの対比が多く散りばめられているところ。エツコのサチコに対する矛盾した感情や、戦後の人々のトラウマと空元気、急速に変化する日本社会と過去へのこだわりなどを、光と影という比喩で暗に示されていると感じます。双方の力の強さはその時々で微妙に変化しつづけ、押したり引いたりすることで曖昧さを生みだしているのではないか、そんなところに注目しながら今後も読んでいきたいと思います。


それにしてもお若いかたがたは、日本語も英語も早口だ。聞きとるのも必死で、今どこのこと言ってるの?って、おとなりさんにちょいちょい教えていただく始末。ありがとう!


というか、途中で気づいたのですが、みなさん原文しか読んでいない、邦訳本をお持ちではない、必要ない?、、、これがあたりまえなのか~。衝撃~。でも邦訳からの気づきもあるのだけどな~、なんて思いつつ、次回も楽しみにしている私。みんな素直だし優しいし、それぞれ夢があってキラキラしてたなあ~、「図書館でみたことあります!」って気軽に声かけていただいて、すんなり仲間入りできました。これからもついていきます!


ranunculuslove.hatenablog.com
ranunculuslove.hatenablog.com