Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『マイケル・K』J.M.クッツェー

クッツェーの小説を読むのは『夷狄を待ちながら』 Waiting for the Barbarians (1980) に次ぐ二作目だ。悲惨なのに目を背けることができない、読む手が止まらない、主人公の個性が強烈な印象を残す、といったような感想は二作に共通する。1983年にブッカー賞を受賞した『マイケル・K』Life and Times of Michael K (1983)は、以前から気になっていた作品だが、あえてこのタイミングで(心が弱っているこのときに)読むことができてよかったと思う。主人公マイケル・Kの過酷な生き様に、不思議と「安らぎ」のようなものを感じ、最後には「静かな光」が灯されるからだ。心が元気な人も、そうでない人も、とにかく読んでみてほしい。南アフリカ出身の J・M・クッツェー(John Maxwell Coetzee, 1940-)は、『恥辱』 Disgrace (1999)で2度目のブッカー賞、そして2003年にはノーベル文学賞を受賞した稀有な、そして偉大な作家である。



マイケル・Kは口唇裂だった

いきなり目に入る冒頭の文章に、強いインパクトをおぼえる。この短い一文に、マイケル・Kが辿ってきたこれまでの境遇や、ここから始まる未来が、少なくとも平穏なものではないということが示唆されている。ロードムービーのように転々と場所移動していくこの物語は、感情表現を極力そぎ落とした叙事的な文体が特徴的である。しかしながら、このような三人称の淡々とした語りのなかで、ときどき顔を出すマイケルの独白体は貴重な部分であり、おもわず両手ですくい上げたくなる。彼の心の奥底に蔓延る母親への不確かな愛情と、大地への思いが露になる特別な瞬間なのだ。


舞台はアパルトヘイトが横行する南アフリカケープタウン。30歳のマイケルは病気の母を手押し車に乗せ、母の故郷であるプリンスアルバートの農場へ同行する。それが母の望みだったし、自分は母親の面倒を見るために生まれてきたのだと信じていたからだ。内戦状態のなか移動は困難を極め、途中で母は他界する。せめて母の遺灰を大地に蒔こうと、孤独な旅を強行する。途中キャンプに収容され、強制労働を強いられたり、兵士に見つかり連行されたり、農場の空き家で使用人扱いされたりするが、その都度脱出し、なんとか農場で住処を確保する。庭師であるマイケルはここで自然と一体化するように自給自足の生活を始める。カボチャを育て、昆虫を食べ、身を隠す、、。しかしついに栄養失調で倒れ、兵士たちによって病院へ収容される。食べることを頑なに拒否し、ガリガリになった身体で、またもや病院から脱走し、農場へ戻ることを決意する、、、。


さて、このような孤独かつ苦悩の連続のような物語に、なぜ安らぎを感じるのだろう。それはマイケル独特の思想や信念にあるのだと思う。幼いころからのけ者にされてきた自分は、時間の外のポケットの中で生きられればいいと思っていた。紛争の続く世間とは背中あわせに創造された、いわば幻想的時空間は、強い信念あるいは諦念のよなもので満たされていた。自分は数多あるキャンプの外側にいられればいい、庭師とは大地に鼻をくっつけ一体化するものだ、大地のように優しくなりさえすればいいと。


しかしこの物語はそう簡単に解釈できるものではないと思っている。不穏で不可解な部分が多いのだ。マイケルはなぜ「K」と語られたのか、看護した医師になぜ「マイケル」と間違えて(故意に?)呼ばれたのか。最後に出会う若者たちは必要だったのか?大地と水、動植物の関係、父親不在と、母親への不可解な愛情、最後に出てくるティースプーンと長い糸巻きの意味は?すべてに通じるモラルとは?。この作品が寓意物語とされていることにも注目してみるが、具体的な寓意性は実のところよくわからない。そこがまたこの作品の優れているところなのだろう。


ひとつ言えることは、人は「大きな間違い」をしでかすものだということだろうか。
病院でマイケルを看護した医師は「きみは大きな間違いをしでかした」という。「きみはもっと若いころに自分の母親から逃げ出すべきだった、母親からできるだけ遠い茂みへ行き自立した人生を始めるべきだった」と。


マイケルはこれに呼応するかのように(しかし噛み合っていないのだが)最後にこんなことをいう。

思い返してみると。俺がやった間違いは十分な種子を持っていなかったことだ、、、、ポケットごとに違った種子の包みを入れておけばよかった。カボチャの種子、スカッシュの種子、インゲン豆の種子、、靴の中にも、コートの裏地にも種子を入れておけばよかった、道中追い剥ぎに遭うのに備えて。それから、俺がやった間違いは種子を全部いっしょに一箇所に蒔いてしまったことだ。一時に一粒だけ蒔くべきだった。それも何マイルも続くフェルトに散らばる、手の平ほどの土地に。それから地図を作っていつも肌身離さず持ち歩き、毎夜、水遣りにまわることができるようにする。なぜなら、もし田舎で発見したことがあったとしたら、何をするにもたっぷりと時間があるということだったのだから。P283-4


この長い台詞にすべてが込められているのだと思う。


クッチェーの小説、読了感がとても良い。他の作品も少しづつ読んでいきたいと思った。