Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

小津安二郎の映画『晩春』にみる「女たち」

先日「カズオ・イシグロ読書会」の2回目に参加してきました。『遠い山並みの光』(A Pale View of Hills , 1982 ) を原文で読んでいますが、第二章は、なかなかツッコミ所が多くて刺激的な会でした。


前回もうっすら感じましたが、原文オンリーな若者たちと、和訳だよりの私とでは意外な部分で解釈に齟齬があるようです。英語ではどういうの?という感覚の私と、日本語ではどうなってますか?と問う彼らとの純粋な隔たりということですね(笑)そういうところもイシグロ文学の面白いところです。


たとえば、藤原さんが経営している「うどん屋」(a noodle shop)について、私は全く違和感がなかったけれど、かれらは「ラーメン屋」と理解している。たしかに「うどん」は英語でも「Udon」です。なぜ「うどん」と訳されたかということはおいといて、執筆当時(1982、昭和57年) のイシグロの noodle 観と、当時英語で読まれた外国人のそれは一致していたのだろうか、というところに関心が湧きました。はたして海外で「うどん」はどこまで知名度があったのか、あるいはもしイシグロ自身が「うどん」を知らなかったとしたら?などと想像すると、必ずしも一致していたとは言いがたい。イシグロ愛読者は世界中にいますから「パスタ」「蕎麦」「冷麺」「フォー」もありえるだろうし、いま書いていてふと思ったのが、長崎が舞台ということで「ちゃんぽん屋」でもよいのでは?


前置きが長すぎました。本題の映画『晩春』は、読書会でたびたび話題に上がったので、さっそく鑑賞してみたのでした。



なんだろうこの既視感。これはもう、イシグロが脚本を手掛けたといっても過言ではないぐらいです。それもそのはず、イシグロは小津映画の愛好家であります。5歳で渡英したきり一度も帰国せず大人になり、日本の記憶がうすれていくなか、小津映画や黒沢映画で日本のイメージを膨らませていたと言われています。繰り返す台詞や、ゆっくりしたカメラワークは、まさに『遠い山並みの光』の会話や動作描写と重なります。『晩春』のあらすじを端的にいうと、父と二人で暮らす娘(紀子)の、嫁ぐ前の揺れ動く葛藤を描いたものですが、その裏テーマとして注目に値するのが「女たち」の関係です。


主人公紀子は、周りから早く結婚しなさいと言われるが、大好きな父をひとり残して嫁ぐことに罪悪感を感じている。一方、子持ちシングルの友人アヤは、バリバリ仕事をこなすキャリアウーマン。そんなアヤが輝いて見え、結婚を回避できるなら自分も仕事に生きようと考える。呆れたアヤは「とにかくいって(結婚して)みなさいよ」「いってみなくちゃ、わからないじゃない」と繰り返し言い、紀子を突き放すのです。


友人でありながら、性格的にも立場も対極をなす二人(女たち)の嫉妬や憧れなどが『遠い山並みの光』の悦子と佐知子に当てはまるのです。『遠い山並みの光』は初期の頃は『女たちの遠い夏』というタイトルで出版されていましたから、なんだかゾっとしますね。



実はイシグロは『晩春』と同じく、父娘の揺れ動く葛藤を(裏)テーマにした短編を初期に書いていたのです(『A Strange and Sometimes Sadness 1981 』)。「嬉しいのに悲しい」「寂しいけど喜ばしい」という感情がそのままタイトルになっているのですが、その奇妙な感情は『晩春』での最後、ひとりリンゴの皮をむく父の表情に滲み出ていて、はっとしました。


奇しくも『遠い山並みの光』2章にも「mixed emotions of sadness and pleasure」というような表現があり、話題にあがりました。現在英国で住む悦子の、長崎を思い出すときの心情ですが、この相反する複雑な感情って、わからなくもないけど、説明しがたい。まるで人生の苦楽を一度に背負ったような表現です。もしかすると、これこそがイシグロの故郷長崎への哀愁なのもしれません。いずれにしても、イシグロ文学と深い関りがある小津映画『晩春』は必見です。



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