Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『忘れられた巨人』”The Buried Giant” カズオ・イシグロ

忘れられた巨人』(The Buried Giant, 2015) は、カズオ・イシグロ、7作目の長編小説です。これまでの作品と違い、三人称の語りになっているところに新鮮味を感じます。なかには登場人物が前面に出てきて、主観的に語る章もあります。さまざまな視点から物語をみつめることができる、ある意味実験的な作品だと思います。その効果は絶大で、ファンタジーという霧を帯びた―恋愛小説とも、歴史小説とも、冒険物語ともいえる―複合的な世界観において、個人の「記憶」や、集団の「記憶」をどう扱うべきか、深く考えさせる作品です。




あらすじ

時代は5〜6世紀、伝説のアーサー王の死後。平和なブリテン島の村に、老夫婦アクセルと、ベアトリスが暮らしていた。村の人々はなぜか記憶が曖昧で、不穏な空気が漂っていた。老夫婦は自分たちには息子がいたことも忘れていた。ある朝、太陽の光に促され、二人で息子を探す旅に出ようと決意する。途中、戦士ウィスタン、少年エドウィン、老騎士ガウェインと出会い、心強い同行者となる。しかし彼らと出会ったことで、人々の記憶を奪っているのは、雌竜クエリグの吐く息(霧)によるものだと知り、竜退治に同行することが先行目的となってしまう。そこには多くの困難が立ちはだかっていた。はたして記憶は戻り、息子とは再会できるのか。

ファンタジー&神話

雌竜クエリグの存在は、この物語に重要な意味をもたらしている。実際には弱りきっていたのに、役目を果たしたというのに、悪とみなされ退治される運命にある。表層的には、クエリグと勇敢に戦って記憶を奪い返すという目的地があるし、その道中で出会う悪鬼、妖精、魔法などにファンタジー性を感じる。他にも、村人の住処は洞穴式になっていて、J.R.R.トールキンの『ホビットの冒険』や『指輪物語』を連想させる。


しかし読み進めるにつれ、この物語の真相(深層)は、単なるファンタジーではないことに気づく。衰弱した竜と戦うことに価値をみいだせないのと同様、記憶を取り戻したところで、今さらどうなる?という単純な疑問から、とりわけ人間の復讐心というものを深く考えさせられるのだ。それが国どうしの問題となれば、とても恐ろしいこと。個人的な記憶においても、アクセルのいうように「忘れたままでいいじゃないか」という考え、つまり「グレーゾーン」を受け入れようという柔軟な思考は、現代社会を生きる私たちへのメッセージとしても聞こえてくる。著者はインタビューで、竜や妖精なしではこのテーマを語れなかったと述べるほど、答えのない倫理的な問いかけが多く潜んでいる。


また「記憶の曖昧さ」をうまくとりいれているこの作品は、一貫していない語りと、矛盾した口伝なども相まって、神話的な要素も感じさせる。

老騎士ガウェイン

神話的といえば、ガウェインの存在だ。ガウェインはアーサー王伝説に登場する円卓の騎士であり、アーサー王の甥でもある。本作でも、亡きアーサー王の甥として起用され、しかも老わせている。それにより確たる風格を手にした老騎士ガウェイン、若かりし頃は『サー・ガウェインと緑の騎士』 (" Sir Gawain and the Green Knight " 1400年頃 , 作者不明) という中世騎士道物語に登場する名高い騎士でもあった。イシグロはこの『サー・ガウェインと緑の騎士』という作品から、あるインスピレーションを受けたと述べている。中世イングランドの厳しい冬の土地環境だ。行っても行っても道らしき道もない、岩だらけの荒涼地、川や沼地に立ち込める冷たい霧、そんな風景の連続は、この物語の不穏な空気感をあらわすのに最適だったのだろう。


そんな中、イシグロはユーモアを忘れない。錆ついた甲冑、白髪まじりの頭、立ち上がる時などは介助を要するガウェイン。もはやあの頃の輝きはなく、つぶやく言葉さえ滑稽に映る。こんなことでは、

あなたが、かのガウェイン様とは、信じかねますわ。

『ガウェイン卿と緑の騎士』訳:菊池清明 p.81

と奥方の声が聞こえてきそうだ。


ところで、老ガウェインが醸し出す哀愁(ノスタルジー)に違和感を感じるのは私だけだろうか。ノスタルジーの定義は「過去の喜び、愛、幸福など肯定する心情に満たされること。また現在では失われて取り戻せないものへの渇望あるいは憧れ」である。どうして記憶が曖昧な彼がノスタルジーに浸ることができるのだろう。彼のつぶやきや怒りは信頼すべきではないのか、、、。


そこで考えたのは、イシグロはガウェインという人物そのものに、裏テーマであるノスタルジーを体現させたのではないかということ。が記憶を奪うなら、太陽はその逆である。太陽が記憶を呼び覚ますモチーフであることは、作中たびたび現れる描写からも明白だ。ガウェインの身にも幾度となく降り注いでいた光と影。それは太陽と霧がもたらしたもので「輝いていた過去 ⇔ 輝きを失った現在」に通じる。そう思うと、ガウェインの、その佇まい自体がノスタルジーそのものだったのではないかと感じる。


ガウェインの起用についてはこちらに詳しく論じられています。
アーサー王研究者である岡本先生の考察は圧巻。
『サー・ガウェインと緑の騎士』のあらすじもあり、過去のガウェインについて知ることができます↓

第三部「カズオ・イシグロアーサー王物語ーノーベル賞作家はガウェイン推し」
岡本広毅著(PP.259-278)

(表紙は他に2種類ある)


一部引用すると、

現代作家イシグロは、騎士あるいは人間として限界を露呈するガウェインに大いなる魅力を感じたことは想像に難しくありません。『忘れられた巨人』に登場する老騎士には、古代ブリテンの時代より数々の栄光と苦難を通して人間的深みを増した英雄ガウェインの面影をたしかに見て取ることができるのです。(p.276)


「人間的深み」のある人物に仕立て上げたというところに、イシグロのガウェインに対する特別感が伝わってきます。

復讐の継承

戦士ウィスタンと少年エドウィンの関係は興味深い。この二人はサクソン人であり、幼いころ母親が連れ去られた経験のある孤児である。ウィスタンは悪鬼に噛まれたとされるエドウィンを助け「若き同志」と呼ぶ。過去に起きたブリトン人による大殺戮の残虐さを伝え、この記憶と復讐心を共有し継承させようとする。その思いの強さは異様なほどである。悲しいことに、彼の「個人的記憶」は「集団的記憶」へと発展し、全てのブリトン人を恨むようにとエドウィンに約束させるのだ。エドウィンにしてみれば、優しく親切だったブリトン人もいたし、尊敬していたブリトン人もいたというのに。無垢な少年の、白昼夢のような回想シーンは胸をうつ。


良い記憶、悪い記憶とは誰が決めるの?

一方で、アクセルとベアトリスの夫婦間の記憶はどうとらえればいいのだろう。記憶の共有は、夫婦間の絆の強さを試されるほど重要なことなのだろうか。良い記憶と悪い記憶は夫婦間で一致しているべきなのか。とても複雑な思いで二人の結末を見守ることになるのだが、キーパーソンともいえる船頭の質問はあまりにも厳しい。クエリグが退治され、記憶が戻ってきた後、ベアトリスは「人生でいちばんの思い出はなにか?」という船頭の問いに対し、なにげない日常の一コマを取り上げたのはとても印象的だった。アクセルもそのことは覚えているといっていたし、息子のいる島(実際には黄泉の島)へ一緒にいけるはずだったのに、、、。神様はそうはさせなかった。神の判断?、、、そう思うと、最後で語る「船頭」は本当に船頭だったのだろうか、前半の「船頭」と同人格だろうか、そんなことを思いめぐらせながら、不条理な結末に愕然としてしまうのだった。

記憶の断片は、わたしの一部

原文のほうを読んでいて気になったのは「part 」という言葉だ。主に「全体の内の一部」という意味で用いられているが、ざっと挙げてみると、、、。

  • アクセルの一部はそう確信していた
  • 正しいことが一つだけあります
  • ごく小さなひとつにすぎない
  • 途中まではご一緒できるでしょう
  • 全部わかっているわけじゃありません
  • 霧が晴れるのを恐れているわたしがいる
  • 少なくともあなたの一部を守ってくれる
  • わたしの小さな一部
  • つぎの部分についてはわたしが多くの責任を負わねばなりますまい
  • その部分は言いたくなかった
  • 黒い影も愛情全体の一部である


こう眺めてみるといろいろと見えてくるものがある。


個人の考えは日々変化していくものだから、それ自体はアイデンティティを損ねるものではない。他者を受け入れることは、同情すること、共感することとは別物だし、愛し合うもの同士でも、同じ思いを永遠に分かち合うことではできないのではないか、ということを思う。それは皮肉にも「記憶」とは無関係である。イシグロはこの作品で「記憶」の問題を前面に提示しているが、その実、普遍的な人間の本質を描いているのだ。


原タイトルの、The Buried Giant (埋められた巨人)は「人びとの記憶」のメタファーである。土埃にまみれ、トランプをめくるかのように「記憶」をひとつづつ取り出すことに何の得があるだろう。掘り起こすべきか、埋めたままにすべきかという究極の問いには、ある部分(私の一部)では賛成であり、ある部分(私の一部)は反対である、とこたえるのが妥当かもしれない。


しかし冒頭で述べた「忘れたままでいいじゃないか」と思える瞬間は幾度とあり、以下の二人の台詞は、緊張の中でも安らぎを得られた言葉だった。
ガウェイン「この雌竜の息なしでは平和はなかった
アクセル「忘却のおかげでゆっくりと傷は癒えた

最後に、、、

最後の船頭の語りのシーンは、夕暮れ時、霧でかすんだ太陽(foggy sun)が海に落ちていこうとしていた。私はこの「霧でかすんだ太陽」」という、なにげない言葉を見逃してはいけないと思った。クエリグが倒され、今まで対になっていた霧と太陽が、仲良く合わさった瞬間だったから、、、。


海に落ちていくかのようなベアトリスに反し、アクセルと船頭は、霧で霞んだ太陽に促され、どこへ向かっていくのだろう、、、。


ハードカバー版のサンザシの木に、クエリグと、ふたりの人影があるように見えます。安らかに眠っている様子に救われる気がしました。

忘れられた巨人