Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『ガウェイン卿の物語』ニール・フィリップ著 


映画『グリーン・ナイト』の字幕監修をされた岡本広毅先生の翻訳『ガウェイン卿の物語』~アーサー王円卓騎士の回想~ (2022) を読みました。(原タイトル:The Tale of Sir Gawain / Neil Philip , 1995 )


『グリーン・ナイト』のお話が第四章に収録されています。(「ガウェイン卿と緑の騎士」Sir Gawain and the Green Knight


初版 (1987) 原文はこちらから試し読みできます↓
books.google.co.jp


本書は、円卓の騎士であるガウェイン独自の視点で語られる回想物語。一人の少年(従者)を相手に、過去の逸話を語るスタイルで、13の章から成っています。誇り高き友ランスロットから、13の傷と頭に致命傷を受け、熱に浮かされ床に臥した状態で語りつづけます。従者の少年(13~14歳)がそれを書き記すことによって、ガウェインの半生の記憶を整理することに成功したという奇跡の書物です。そしてこの書物のおかげで、アーサー王物語に詳しくない私のような読者でも、この一大物語群の大筋を見知ることができるようになっています。(この13というの数字は気になってしまいます)


ガウェインのランスロットへの怨恨はかなり烈しく、語りの合間合間にもその湧き上がる感情を隠そうとはしません。二人の弟を殺され、自身へは致命傷をくらわされたうえ、なお生かされているという無念さが伝わってきます。しかし聞き役に無垢な少年を選んだことで、その感情はいくぶん抑えられ、大きな癒しを得ていると感じます。過去の栄光や過ちを穏やかに語るということ、そしてそれを黙聴し共有してくれる人が目の前にいるということは、心の安定へとつながり、徐々に死にゆく運命を受け入れているかのように感じられます。


それぞれのストーリーには、騎士道精神や、冒険、恋愛、魔法、運命などにまつわるガウェイン独自の悟りがあり、それをわかりやすい言葉で伝えられています。たとえば、「極限まで追い込まれなてみないことには本当の自分というのはわからない」「人生が我々を作るのであって、その逆はない」など。これらは少年の心にも素直に響いたことでしょう。そういう意味でも、本書は子供たち(小学校高学年~?)への読み聞かせにも最適なのではないかと思います。


何よりニール・フィリップさんの表現力の豊かさには圧倒されます。それは翻訳の素晴らしさでもあるのですが、景色、表情、行動のひとつひとつの描写や比喩が絶妙なのです。目の前に浮かぶ想像の世界に鮮やかな彩りを与えてくれるような言の葉の数々、詩を読んでいるかのような日本語の美しさに、読む側の大人も魅了されるはずです。読み返すたびに、その折々のお気に入りの一節が見つかるかもしれません。


ただ忘れてはならないのは、これらは全てガウェインが発した言葉であるということ。とても熱に浮かされ死が迫っている人の言葉とは思えませんが、情感溢れるその心の声を、ありのまま書き留めた少年「きみ」は凄い! 読了後は「(この記録が)残骸にまみれ失われませんように」という少年の祈りが、しみじみと伝わってきます。


私個人的には、本書を読んでいるうちに、これは「ガウェインの追憶」(カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』)ではないかという錯覚を覚えました。「ガウェインの追憶」とは、三人称で展開する『忘れられた巨人』の作中、不意に老騎士ガウェインが語り始める一人称の章のことです。(間をあけて2度登場するため主役を超える存在感を放っている)ここで過去を回想しながら、亡きアーサー王の偉大さ、忘却の価値、自己欺瞞などを感情あらわに独りつぶやく声は、本書のガウェインの声と重なります。


訳者あとがきには、終始聞こえてくる「ランスロットの息遣い」をバックサウンドに見立て「眼の前の現実を直視させ、かつ過去の記憶を呼び起こします」と書かれています。記憶と忘却は『忘れられた巨人』のテーマでもあり、「ガウェインの追憶」の章にもバックサウンドといえるものが実は存在します。それは、とある婦人方から浴びせられる罵声「臆病者のバカ騎士!」「あなたはウソつきですか!」といった強い恨みのこもった言葉の数々。それらが幻聴のようにまとわりつき、否応なく過去の過ちを呼び起こされて独り苦しみ悶えるのです。


忘れられた巨人』では、民族間の復讐の連鎖を封印するため、アーサー王がマーリンの魔法を利用しクエリグ(雌竜)に「忘却の息(霧)」を吐かせ平和を保っていました。ランスロットの息を「記憶(を呼ぶ)の息」とするなら、対照になるのはクエリグの「忘却の息」。ガウェインは弱りつつあるクエリグに最後まで望みをかけていた人物でした。記憶忘却ランスロットとガウェインの対立が薄っすらと見えてくるような気がします。クエリグの息があるかぎり、ランスロットの息があるかぎり、ガウェインの「命の灯火がある限り、、、、」役割を果たそうとする執念は重なり、この物語と『忘れられた巨人』は限りなく近しい作品だと思いました。


カズオ・イシグロは、過去のインタビューでこんなことを述べられていました。本書『ガウェイン卿の物語』に通じる何かが確かに見えてきます。

自分のした行動、良かれと思って行ったことが、個人や社会にどう影響したのかということ。それは当然ずいぶん後年になってから気づくことです。人生の黄昏時ともいえる晩年に差し掛かった時、本当にそれでよかったのだろうかと振り返り、その時は気づきもしなかったことに気づくのです。もっと別の生き方があったのではないか、自分の人生は無駄だったのではないかと考える時、はたして人はどういう行動をとるのかということに興味があった。

物語ることの本質は、私にとっては何よりも感情を伝えることです。

人々が人生について考え、思い、感じていることを共有することは全ての人がもつ本能で、生きていることはこういうことだということ、、、人間にとってすごく大事なことと思います。


過去を回想し語るには「老い」てこそ深みが増します。イシグロが「ガウェイン卿と緑の騎士」にインスピレーションを受け、ガウェインに魅力を感じ、老わせ、語らせたのも、なにか特別なものを感じます。舞台を変えただけの同一人物といわれる『日の名残り』のスティーブンスと『浮世の画家』の小野益次、そのなかにイシグロ版ガウェイン、そしてフィリップ版ガウェインも仲間に入れてみようと思います。カズオ・イシグロさんは、そんなことひとことも言ってませんが、、、。





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