Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

Escape Routes『逃げ道』ナオミ・イシグロ

『逃げ道』( Escape Routes , 2020 ) は、英国作家の新星ナオミ・イシグロのデビュー作となる短編集です。



父の名は、あのノーベル文学賞作家カズオ・イシグロということで、注目せずにはいられません。作風は?父の影響力は?と期待に胸を膨らませながらページをめくる時間は至福の時でした。


なんでもない日常に潜んでいる人々の悩み、不安、孤独。どのお話も、語り手の思いは手に取るようにわかるのに、わかり合えなていない周囲の人々。そんな憂き世を繊細に描きつつ、いつのまにか妖精の国へといざなう手法は斬新で、まるで大人のおとぎ話のよう。ふわっと放たれた魔法の国に、読者は迷子になってしまう。でも不思議なことに、置いてきぼりを食らったというよりは、はれやかな解放感とでもいえましょうか、そんな気分に浸ることができる作品群です。


訳者、竹内要江氏のあとがきによると、ナオミ・イシグロは、アンジェラ・カーターやニール・ゲイマン、ジョージ・ソーンダースなどから影響を受けているようです。ニール・ゲイマンは、現実とファンタジーの入り混じる本作についてこう評しています。「はじまりは繊細なクモの巣のようだった物語が頑丈な罠のような結末を迎える」と。なんという表情豊かな、ファンタスティックなコメントでしょう!はやくも今後のご活躍が期待されます。


ところで「逃げ道」というと、どうしてもネガティブな印象を受けてしまいますが、実はそうではないと、この物語は静かに教えてくれています。どうしようもなく行き詰まったときは、いったん異世界へいってみる、実際旅立つことは不可能でも、空想することで十分効果を発揮するのです。


それは、少し離れてたところから、今いる環境を振り返って眺めてみること、自分という人間を俯瞰してみることです。小さな世界に生きていなかったか、固定観念にとらわれていなかったか、自己欺瞞に陥っていなかったか、家族やパートナーの意外な一面は、近すぎて見えていなかっただけではないか。そんなことを考えさせられます。


際立って目についたのは「perspective」という言葉。全体に散りばめられたこの言葉からは強いメッセージ性を感じました。新たな視点、違った角度からで物事をみてみれば、この世界は今までとは様子が変わっていく。勇気をもって開いた扉の向こうには、一度「逃げた」からこそ映る新たな景色「未知なるもの」があるのです。そんな思いが込められているように思います。


人生いろいろあるけれど、ほんの少しでも前向きになれるようなエンディングは、父カズオ・イシグロ譲りなのかもしれません。


作品群の並びは以下の通り

  • 魔法使いたち
  • くま
  • ネズミ捕りⅠ
  • ハートの問題
  • 毛刈りの季節
  • ネズミ捕りⅡ 王
  • 加速せよ!
  • フラットルーフ
  • ネズミ捕りⅢ 新王と旧王


こう見ると、自然と目を引くのは「ネズミ捕り」ではないでしょうか。間をあけてなお続く物語は、間違いなくメインストーリーの風格があります。となると間に入っている物語は何を意味するのか?まさか連続ドラマの間にあるCM的な?そんなことはないはず?


時代的にも、中世の雰囲気がある「ネズミ捕り」は、現代を描く他の作品とは対照的です。テーマ性に繋がりがあるのでしょうか?読む前からワクワク感が止まりません。


というわけで次回は、個人的にもドはまりした「ネズミ捕り」という物語に焦点をあて、ご紹介したいと思います。

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