Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

映画「上海の伯爵夫人」カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロ脚本の映画『上海の伯爵夫人』 ( 2005 ) を観ました。


上海の伯爵夫人 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

原題:The White Countess
監督:ジェームズ・アイヴォリー


日の名残り』(1993) に続き、ジェームズ・アイヴォリー監督の2作目。
美しい映像と、凛とした佇まいの俳優陣は『日の名残り』を思いおこさせ、舞台や時代背景は『わたしたちが孤児だったころ』(2000) を彷彿とさせる。『わたしたちが孤児だったころ』もそうであったように、上海が舞台でありながら主要人物は中国人ではない。イギリス人と日本人または、アメリカ、ロシア、日本人という国際色豊かな顔ぶれで、会話はすべて英語である。


カズオ・イシグロは、普遍的な人間の感情を、作品を変えながら繰り返し描く国際的作家である。本作もまた例外ではない。どの人種が、どこの国にいようと、人間の感情に共感する部分は多い。過去の憧景(ノスタルジア)あるいはトラウマは、いつかの時点で必ず向き合わなければない。現実に失望しながらもそれを受け入れることで、よりよい未来につながっていくはずだという人生観は、なにも特定の地域の、特別な人のドラマなんかではなく、わたしたちもみな抱いていることなんだと、静かに伝えてくれる。


言葉が意味を隠してしまうことに興味がある」という彼の作風は、言葉選びには慎重で、多くを語らない。個人の背景や情報は最小限におさえられていることや、感情を抑制した登場人物たちの語りは、ときに奇妙に映ることもあるけれど、それはわたしたちの想像力を際限なく駆り立ててくれる。表層にまどわされず「ほんとうに大事なこととは何か」という問いをそっと差し出してくれるのだ。


読み手である世界中の人びとが、立ち止まって考え、それぞれの解釈をもち、おおいに議論するようにと仕掛けられた、イシグロマジックなのだと思う。カズオ・イシグロという偉大な作家と同時代に生きることは、幸せなことである。



(以下ネタバレあり)

さてこの映画の主人公ジャクソンは、盲目というハンデがある。
アメリカ外交官の彼は、ある災難で失明した挫折から、家族と別れ、祖国をすて、上海に逃げてきた。「外の世界」を遮断し理想の中だけで生きていくために、閉ざされた楽園のような夜のバーをつくるのだが、、、。


時代は1937年、日中戦争がはじまる前の、刺激的で混沌とした時代、上海は外国人で溢れていた。そこで出会った日本人松田(真田広之)は、ジャクソンの計画に協力するといいつつも、日本軍が攻めてくることを予兆しているかのように随所に登場し、意味深なことばを放つ。


ジャクソンのバーを手伝うことになったロシア人貴族の未亡人ソフィアもまた、家族とともに祖国から亡命してきた。ジャクソンは彼女を「魅惑と、悲劇性と、あきらめに満ちている」と絶賛し、店の名前は彼女にちなんで「The White Countess(白い伯爵夫人)」とした。


「外の世界」を拒絶するジャクソンの異様なまでの支配力や極端な思考は、バーが軌道に乗り始めても淀みなく続いた。そこに満足することもなく「政治的緊張感」がたりていないのではないかと松田にいう。しかし実際「政治的緊張感」ともいえる日中戦争が始まるやいなや、それは「外の世界」の出来事であり、自分には関係ないと意固地になる。「内の世界」ともいえる楽園のバーにしがみつこうとする内的矛盾が見てとれる。


そもそも、イシグロの脚本では当初、ジャクソンは盲目ではなかった。監督の提案で盲目の設定にしたのだそうだ。それはいったいどういうことなのか、どんな効果をもたらしたのだろうかとずっと考えていた。


ここからは私の憶測になる。
もともとは『わたしたちが孤児だったころ』のバンクスのように、失った過去を取り戻すために、盲目的に突き進むという人物を想定していたのではないだろうか。探偵のバンクスが周りから指摘された言葉は「現実をよく見ろ」「空想劇はもう終わりだ」ということだった。


さらに勝手に付け加えるとすれば「君は何を見てきたんだ」「状況をよく見ろ」「探偵の拡大鏡はなんのためだ」などが思いつく。しかし、目の見えないジャクソンに対しては、誰もこのようなことは言えないはずで、周りは沈黙し、見守るしかできない。


それを逆手に取れば、自分の思い通りの世界が通用するという支配的な部分と、誰にもわかってもらえないという弱い部分が、矛盾した2面性のある人物像を生み出すことができる。「ほんとうに大事なことは何か」と考えるならば、わたしたちが哀れむのは、目が見えないという事実(表層)ではなく、彼のこころの奥底にある苦しみなのであり、それらをなにで埋めるべきかということだろう。


ジャクソンの苦しみは、わたしたちもみな同じなのではないかと気づく。盲目のジャクソンとは、都合の悪いことから目を背け、状況を顧みず盲進してしまうわたしたちのメタファーなのではなかろうか。松田が言った「バランスがとても大事だ」ということばは、わたしたちにも意味をもつ。


最後のシーンで素晴らしかったのは、ジャクソンが明るい表情でソフィアに言ったひとことだ。


「ぼくは見えないんだから」


表情からもわかるように、これは決して悲観的ではない。ソフィアを本気で愛している確信と、自分を受け入れてくれる存在に感謝する言葉だ。
それまでのジャクソンは、


ぼくには君が見えてるんだから


と、ソフィアがどんな顔だちをしているのか手でさわることすらしなかった。彼女の全てを知ることを避けてきたのだ。この一見矛盾した2つの言い方は、まさに「言葉が意味を隠してしまう」瞬間だろう。あえて盲目に設定し直した理由が、ここにみられるのではないだろうか。


激化する戦争で、バーは破壊されるが、松田が言い残したように
「バーではなく、本物の伯爵夫人と一緒に別の世界を築くべき」
と悟り、ソフィアともに上海を脱出する、、、、。

人生は、ほんとうに一人の人間を愛することより大きいのだろうか
夜想曲集』(Nocturne , p.257) カズオ・イシグロ

観終わったと、あらためでこの名言を思い出していた。



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