『インドへの道』は、インドのチャンドラポアという架空の村を舞台に、複雑な人間関係のおりなす長編小説。E.M.フォースターの長編小説6作品のうち5作目にあたり、『眺めのいい部屋』『ハワーズ・エンド』に続く名作である。
原タイトル:A passage to India(1924)
読み終えて思うことは、とにかく登場人物が多いので混乱したのと、わたしの読みが浅かったせいか、いくつか疑問が残ってしまった。と同時に、インドのイメージがどうしても湧かない!ということで、映画を観てみることに、、、。
映像では登場人物の多さはさほど気にならなず、俳優陣の個性や表現力が際立っていた。舞台となったモスクやマバラー洞窟は、もうちょっと観ていたいなあと思わせるような神秘の極み。さすがの名作、観てよかったなあと思う。しかし結局のところ、原作に忠実だったということで、謎めいた部分は謎のまま。そこがまたこの作品の良さであるようだが、、、。
時代は20世紀初め、インドがイギリスの植民地だったころのお話。小さな村チャンドラポアでは、インド人住居区とイギリス人居留地が分かれていて「二つの世界には共通性はひとつもなかった」のだ。非常に意味深な言葉ではあるが、この村の支配と被支配の関係はこれだけではない。
この頃インドで対立していたヒンドゥー教とイスラム教という著しく異なる性質をもつ「二つの世界の共存」だ。この宗教対立は歴史的にも忠実で、1947年のインド独立の際は、大きな悲劇をもたらしたようだ。主人公で医者のアジスは少数派のイスラム教徒であり、対イギリス人、対ヒンズー教という2重の圧力による葛藤があったといえる。
そんなアジスは、村の中でも少し浮世離れしているように思えた。政治には無関心で、繊細で純粋な面がある。詩を好み「人間は自分自身の中に存在するのではなく、お互いの心の中に存在するのではないか」という信念をもっていた。イギリス人へは不信感をつのらせていたが、ある夜、モスクでムア夫人(イギリス人)と出会ったことで、イギリス人の中にはこのような考え方をする人もいるのだと気づき、彼女に魅了されていく。それによって、ある事件に巻き込まれていくのだが、、、。
この物語は、個人の思想や心理的動向に光をあてつつも、政治的、宗教的格差という背景がある以上、運命には抗えないのだという皮肉がこめられた作品なのだと思う。しかし著者はイギリス人なのであって、逆説的な立場で意識的にイギリス人を描いているように思えた。
たとえばムア夫人は、愛情豊かで、良識人に見える反面、愛などくだらないと思っているところ、判事の息子ロニーは、親や婚約者に見せる顔の裏で、インド人に対しては支配的な傲慢な態度をとる。またロニーの婚約者アデラは、知的好奇心からインドを見たいと思ってやってきたのに、インド人を見ようとしなかった。
それでも彼らはこの混沌とした村で、国、年齢、性別を超えた人間同士の交流により、互いに理解し合い、自己を見つめ、愛することや、より良い人生を見い出そうとする良い兆しがあったのに、結局は分裂し、分かり合えなかったというところがとても残念だった。一望する大地も、見上げる空もたったひとつなのに、人間社会は一つになれない。「二頭の馬はふらりと離れ」最後は「だめだ、まだだめだ」と幕を閉じるのだ。
ところで、だれ一人乗り気ではなかったマバラー洞窟ツアーは、いったい何を意味したのだろう。映画を観る限り、洞窟には多くの入り口が存在し、一歩入ると中は真っ暗闇と化す。うっかりすれば、あっという間に人影は消え、自身をも見失ってしまうかのような作りになっている。あくまで私見だが、マバラー洞窟とはまさにインドの混沌の象徴なのではないかと思う。異文化で異宗教のコミュニティは隣り合わせに存在し、入り口では他者を歓迎している。しかし中へ入るや否や、暗闇に襲われお互いへの理解が閉ざされてしまう(分かり合えない)ことを示唆しているのではないだろうか。
そう考えると、アデラが暗闇で体感したという幻覚や幻聴も、信憑性を帯びてくる。簡単に足を踏み入れるべきではなかったのだ。
マラバー洞窟での悪夢は、それぞれがバラバラの出口を、本物のインドを求めて歩き出すための道しるべにすぎなかったのだろうか、、、。
機会があれば再読したい作品である。
河出文庫より今年新たに出版されました(小野寺健訳)
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参考文献