Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『クララとお日さま』”Klara and the Sun” カズオ・イシグロ

『クララとお日さま』Klara and the Sun は、カズオ・イシグロが2017年にノーベル賞を受賞したあと、初となる長編小説です。

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本作は2019年に執筆を終えていたといわれていますが、翻訳をまたれ、2021年、イギリス、アメリカ、日本で同時出版されました。


奇しくもこの年は世界的なパンデミックの只中。著者はインタビューで「今回のパンデミックは非常に奇妙なタイミングで来た」と述べています。


コロナ禍を生きるわたしたちに、人間とはいったい何なのかと、立ち戻って考えるきっかけを与えてくれる作品です。


この物語は、AIロボットのクララの目線で語られます。


AIだからこそ見えるもの、疑問に思うことなどが、そのまま素直に表現されています。


しかしこれは単なるAIロボットの驚異の物語ではありません。


どこまでも人間に近いクララが、ロボットであることの意味は何なのか、


クララの願いは叶うのでしょうか、、、。


『わたしを離さないで』から受け継がれたテーマをさぐりながら読み進めていくと、何かが見えてくるかもしれません。


クララの視界と感情

クララの視界は時折ボックスに分割される。ボックスの一つ一つには、異なる表情や景色が映し出され、やがて重なり合ってひとつの画像になる。それがおそらく感情となって息が吹き込まれるのだろう。AIならではの処理能力は独特で、表現のしかたもおもしろい。


たとえば道端で老人が偶然に再会した時の「幸せと痛みを同時に感じる」ことは非常に困難で、ボックスが重なり合った結果「幸せ=痛み」と学習してしまうのだ。


そうして蓄積された画像(感情?)は、データ化し保存されるため、必要な時にいつでも出し入れできる。人間のように過去の記憶を曖昧にしたり、隠蔽することはできないという欠点(?)がある。


雄牛Vs. 羊

クララは、ジョジーの母親と二人でモーガンの滝へ向かう途中、一頭の雄牛に出会うが、なぜか異常な恐怖を示す。


「この雄牛は重大な過ちだ、、、、、いるべき場所は地中の奥深く、泥と闇のなかであり、地表の草のあいだに置くことはおそろしい」 と感じる。


クララはお日さまから栄養をうけていて、太陽を神のように崇めているから、神の前に立つことを許されないほどの過ちを感じ取ったのだろう。しかしそれは何を意味するのか、そもそも誤った学習記録なのか、よくわからない。


ただ、お友達としてお世話をしているジョジーを家に残して、母と二人でおでかけすることに後ろめたさを感じていたのは確かなので、その気持ちが雄牛に投影され、良くないことが起きるという暗示だととらえることもできる。


そして帰り道、今度は羊の群れに遭遇。


クララは「さっき見たあの恐ろしい雄牛とは正反対の生き物なのでしょうか」と思うほど、羊からは温かい思いやりのようなものを感じ取る。


雄牛と羊、これはモーガンの滝の行きと帰りで、クララの心境が、不安から穏やかさへと変化したことを示しているのではないだろうか。


向上処置が生む格差社会

向上処置を受けているという子どもたち(lifted kids)とは、いったい何のことだろう 。
その名の通り、優秀な知能を備えるための医療処置を強いられた子供たちだろうか。


ジョジーはこの処置の代償で体が弱っている。
他の子も同様だろうか、学校へ行かずオンライン授業を受けている。


子供たちは孤独を紛らわせるため、クララのようなお友達(AF)を購入したり、親子交流会を開いて社会性を保っているが、交流会での彼らの振る舞いは、どこか殺伐としていた。向上処置を受けていない友人リックにとっては、異様な光景なのだった。


このような向上処置の有無による格差問題は、経済的な理由もあろうが、親のエゴみたいなものも充分感じ取れる。傷つくことを恐れ、保障や安定を手に入れようとする歪んだ母親の愛情が、我が子の人生を揺さぶっている。


実はこの向上措置は『わたしを離さないで』の終盤で、すでに予期されている。キャシーとトミーがエミリ先生の家を訪ねた時、エミリ先生が、ある科学者の研究内容についてこのように言及している。


「能力を強化した子供を産むこと、望む親にその可能性を提供すること。特別に頭がいい、特別に運動神経が発達している。そういう子供」


しかし結局は、社会がそういう子供たちに乗っ取られる(格差社会)ことを危惧し尻込みしたと言っていたのだ。


イシグロはこのようなテーマを再び読者に提示しながら、現代社会に警笛を鳴らしている。ジョジーの父親はAIに職を乗っ取られたひとりであるが、そんな時代がもうそこまでやって来ている。そう意味でも今回のパンデミックは、同じ状況といえる。


職を失った人々が、今後どのようにして社会貢献していけばいいのかという問題に対して、明確にその答えがみつけられずにいると危惧している。


個人の「継続」は可能か?

カパルディが考えるジョジーの「継続」とは、データ保存に成功すれば、人間は複製できるというもの。それに真向反対するのがジョジーの父親。「心を学ばなければ絶対にジョジーにはなれないんだ」と。理性と感性のせめぎあいである。


人間は職を失くしても、AIによる「置き換え」が可能であるならば、人間の命も同じように「置き換え」られるとうのがカパルディの考え。


それに向き合うジョジーの父親の発言には涙ぐましいものがある。自分は仕事を置き換えられたからこそ、世界を違う目で見られるようになった。何が大切で、何が大切でないか見分けることができるようなったんだと。


人間特有の心や魂は、誰にも代わりがきかない、世の中にひとつだけのものなのだ。

役目を終えたクララ

そもそもクララは最新型ではなく、型落ち商品だった。いわゆる万能ではないロボットを起用することで、著者の意図するところが見えてくる。自分の欠点を知った上で、どのように行動したらいいか、何を改善すべきかということを、私たちとともに考えられるように仕組まれているのだと思う。


そんなクララがついに廃棄物同然となる日が訪れる。
ジョジーに奇跡が起き、元気になり、進学のために家を出ることになったのだ。クララの役目は終わった。


クララは自分が買われた本当の目的を知り、期待に沿えるよう努力したが、それ自体が間違いであったことに気づく。


最後の店長さんとの会話は、じんわり感動的だった。


人は別れ別れになっても、たとえ死んでしまっても、その人の魂はまわりの人の心の中に生き続け、永遠に愛される価値のあるものなのだということを、身に染みて感じることができるラストだった。


※難解だけど一読の価値あり


2021.4.11 記
2023.6.17 更新


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