Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

イアン・マキューアン『恋するアダム』

イアン・マキューアン著『恋するアダム』は、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』と同時期に執筆され(2019)、同年に翻訳出版 (2021) された作品である 。両者が同じテーマを扱いながらも、それぞれに違った持ち味が楽しめるということで、当初から話題になっていた。英国作家イアン・マキューアン (1948- ) は、カズオ・イシグロ (1954- ) と同じイースト・アングリア大学出身の先輩であり、イシグロに多大なる影響を与えた。あまり知られていないが、イシグロは、初期の短編 Getting Poisoned (1981) について、マキューアンのデビュー作 The Cement Garden (1978) を意識的に真似て書いたものだと公言している。しかし今回の2作品は、どちらかが意識したというわけではなく、思いがけない、偶然の賜物だったといえそうだ。




本作はまずタイトルの意訳が面白いと思う。『恋するアダム』から想像するのは、恋愛小説以外に他ないのだが、ブックカバーの素敵な画のおかげで、そこに映るのは、どうやら生身の人間ではなさそう、一筋縄ではいかなさそう、と視覚で察しがつくようになっていて、日本特有の含みの美学を感じさせる。


ちなみに原タイトルと表紙はこちら
とてもわかりやすい!
Machines like me : and people like you , 2019

Machines Like Me

Machines Like Me

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というわけで、言わずとも知れるこの物語のテーマは、AI搭載のアンドロイド(人造人間)と「人間」の共存であり、そこで直面する様々な倫理的問題、浮かび上がる私たち人間本来の姿を、三角関係という恋愛を通して描かれている。人造人間というと、近未来のことのように思ってしまうが、舞台はなぜか遡って1982年イギリスとなっている。その年のイギリスは、チャールズ皇太子とダイアナ妃婚礼の翌年にあたり、フォークランド紛争で揺れ動いていた。日本では、中曽根内閣が発足した年である。昭和、、、かなり昔な印象を受ける。そこは、未来を想定した『クララとお日さま』とは異なる点であるが、時代設定でいうと、2005年に出版されたイシグロの『わたしを離さないで』も、クローン人間という未知のテーマでありながら、過去を物語っているのだ。事実を反転させた嘘の世界、あり得たかもしれないもう一つの過去、誰も見たことのないパラレルワールドに仕立て上げられているところは、とても興味深い共通点だと思う。


そのほか『クララとお日さま』と一線を画すのは、語りと視点である。AIクララ自らが語る世界観は、純粋かつ不確かな視点が多く、牧歌的な雰囲気に包まれているが、『恋するアダム』は、主人公で買主のチャーリーの、主観的な語りになっている。そのためアダムの内面が読み取りにくく、32歳のチャーリーから見た同性イケメンロボットへのまなざしは、ときに辛辣で、恋人ミランダへの対応には嫌悪感を露にする。チャーリーはやがてアダムの購入を後悔し、破壊したい衝動に駆られるが、あまりに人間らしく成長したアダムを、命が吹き込まれたような機械を、簡単に処分することに罪悪感を抱きはじめる。飼いならしたペットのごとく。


興味深いことに、このパラレルワールドにおいては、実在した「人工知能の父」アラン・チューリングがまだ生きている設定になっている。天才数学者であった彼の半生の実記録は、映画『イミテーションゲーム』(2014) に詳しいが、エニグマの暗号解読以外は、史実とは異なる功績が連ねられている。チューリングもまた、25体しか売り出されなかった最新型モデルのアンドロイドを購入した一人であり、間違いなくこの物語のキーパーソンとなる人物である。彼は十年以内に人間の頭脳の複製を作ろうと試みていた。発言の印象からすると『クララとお日さま』の変態男、いや自称「肖像画家」のカパルディの持論に匹敵するかのように思えたが、後半部分のチューリング独自の哲学論は圧巻で、読者をぐいぐいと引き寄せ味方につけることに成功していると思う。その点でも、カパルディよりもかなり優位に立っているのではないだろうか。(比較する必要もないのだが、、、)


さてミランダに恋してしまったアダムは、どうして周囲の人間をゴタゴタにかき乱してしまったのだろう。正確なデータを保有し、合理性を重視するAIとって、愛する人には正しくあってほしかったのに、簡単には受け入れられなかった。アダムは、たとえば無害な偽りや嘘、愛する人を無条件で赦す心、はたまた裏切りや復讐の概念など、人間が無意識レベルで営むグレーゾーンを全く理解できない。チューリングの言葉を借りると、AIに人間の心を学習させると、小さな問題を一つ解決するたびに、無数の別の問題が現れるというのだ。なんという既視感!それは確か『クララとお日さま』で、ジョジーの父親が言っていたことと同じではないか。人の心というのは、部屋の中に別の部屋があり、そこに入るとさらに別の部屋があるから、学習するためにいくら時間をかけても常に未踏査の部屋が残るんだと。


しかし大事なのは、著者はこの小説でAIの心の教育の難しさを強調したいのではないということだ(と思う)。機械は高度に進化したし、何も間違えてはいないではないか。だとしたら間違っているのは、不完全で理不尽なのは、人間のほうではないのか?ということを暗に突きつけられているように感じる。チューリングいわく、わたしたちは人間の心について、たいしたことも知らないのに、人工的なそれを社会生活の中に組み込んでしまった。彼らはすぐに矛盾の大嵐に巻き込まれてしまい、これでは彼らが幸せなわけがない。現に自ら電源スイッチを無効に(=自殺)する人造人間がいる実態を悲しみ、後悔する。そしてそれらを失敗作としてリコールをかけ、リプログラミングしようとする。人間は自分たちの問題は脇に置いて、これ以上AIに何を望むのか、、、。


最後にアダムは、チャーリーに無茶なお願いをする。あれほど嘘を許さなかったアダムが、チャーリーに嘘をついてくれと言うのだ。なんだか意外すぎて笑ってしまった。自分はリコールがかかって夕方に回収されてしまうから、そうなる前に壊してほしい。そして逃げられたと言って隠してほしい。追跡プログラムを使えないようにしておいたから、電源を切った後はアラン・チューリングのところへ運んでほしい。彼なら私の一部を利用できるだろうと。そして、わたしは君たちと生きることができて幸運だったと言い残す、、、。チャーリーは、ここも意外なのだが素直に従うのだ。アダムがより人間的に、チャーリーがより機械的に、入れ替わったような瞬間であった。


チューリングは言う、人工知能の開発は子供の頭脳の成長と同じだと。アダムを失くしたチャーリーとミランダのせめてもの救いは、不意に現れた少年マークの存在だろう。訳あってマークを養子として二人で育てることになるのだが、このことが皮肉にも特別な意味をもつと感じる。チャーリーは、アダムの初期の性格設定をミランダと半分ずつ行い、ある意味我が子のような共有物にすることを望んでいたが、それを失った今、これからは二人の遺伝子などひとつも入っていない真っ新な生身の子供を、2人で共有して育てていくことになるのだ。そして三人で、また悩み多き人生を歩み出すのだった。


ところで、アダムの最後は、自殺といえるのだろうか、それともチャーリーが殺人罪に問われるのだろうか。湧き上がる大きな疑問はそのままにして、この小説の奥深さを噛みしめたいと思う。


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