『わたしを離さないで』Never Let Me Go (2005)
はカズオ・イシグロの6番目の長編小説です。
2010年には映画Never Let Me Goが公開され、
日本でも2016年にドラマ『わたしを離さないで』が放映されました。
2016年1月、ドラマを初めて観た時、
今まで味わったことのない衝撃が走ったのを覚えています。
牧歌的な映像美の中にある不気味さ、
グレーの服を着た子供たちと、
グレーな空模様、
いつか何かが起こるのでは?
という危うさがあって、
どうしようもない悲しみが生まれました。
特に主人公恭子の、
献身的で、感情を抑制したふるまいはどこか寂しく、日本人らしさを感じました。
原作の舞台は英国で、恭子はキャシーだというのに。
キャシーの静謐な語りは、
まるで湖のように波風がありません。
時に冷たさすら感じますが、
それはおそらく、何かを喪失した後の寂しさなのでしょう。
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本作はクローン人間達が、臓器提供のために生かされ使命を果たすお話ですが、
もちろんイシグロさんは、クローン人間の脅威(あるいは驚異)を示したかったわけではありません。
決して悲しいものでもなく、むしろポジティブな話にしたかった。シンプルな比喩を用いて、このような残酷で暗いシナリオを描くことで、わたしたち人間の生きている価値が、強調されるのではないかと思った、と述べています。
人間はいつ死ぬかわからない命を生きているのですから、クローンであるキャシーたちの余命が見えているとはいえ、それは私たち人間となんら変わりはないのです。
洞察力に優れたキャシーと、
癇癪持ちで繊細なトミー、
自己中で虚言癖のあるルースの
三角関係を軸とした共同生活は、ヘイルシャムという完全に守られた「防護泡 」から始まり、16歳でその泡から外の世界へ放たれます。
彼らは「教わったようで教わってない」数々のことについて、空想し、議論し、行動していきます。
その姿は、私たちから見て、そんなことは大きな間違えなんだよと、言うことができないほど完全なる純粋無垢でした。
ノーフォークへ「ポシブル possible」という親(自分たちのモデルmodelのようなもの)を探しに行くときも、
店で見つかった"Never Let Me Go" のカセットテープをみて、これはコピー(複製)ではなく、あのとき無くした本物そのものなのか?と思うときも、
真の愛を証明するために、トミーが苦手だった絵を描き始めるときも、
私たち読者は見守ることしかできず、
もどかしさに似た悲哀を噛みしめていきます。
それらが単なる空想にすぎなかったということに気づいたとき、彼らはどうしようもなく残酷で容赦ない現実に打ちひしがれてしまいます。
しかし「空想 fantasy」は、私たち人間が物語にそれを求めるように、彼らにとっても生きていく上で、なくてはならないものだったのでしょう。空想をしている間は満たされた気分になります。 この物語が寓話的で、ポジティブなものだと言っていたイシグロさんの思いが「空想fantasy」という言葉に載せて伝えられているような気がします。
さて、物語の山場はまぎれもなく、後半キャシーとトミーが、ヘイルシャムという防護泡へ再訪する場面です。
といってもヘイルシャムはすでに閉鎖されており、二人が向かった先はかつて彼らの絵を集め、展示館へ運んでいたマダムと、エミリ先生のいる家でした。
すでに三度の提供を終え、余命が短くなっているトミーに「猶予deferral」を許可してもらうためでした。
ヘイルシャム出身の特権として、真に愛し合った二人なら、余命を引き延ばしてくれるという噂を聞いたからです。
トミーはヘイルシャム時代に残せなかった絵をたくさん描いて持っていきます。
それは二人の愛の確信の材料でもあります。
ヘイルシャムでは絵が重要視されていたし、
魂の込められた絵は、その魂どうしの相性で真の愛を証明できると信じていたからです。
もちろんそんなものは空想に過ぎないと、あっさり拒絶されます。
外の世界で疲弊しながら、ヘイルシャムを心の拠り所に生きてきた二人が、最後の希望を求めてやってきた先に、マダムから下された言葉は残酷なものでした。
確信と言いましたね。
愛し合っている確信がある。
どうしてそうわかります。
愛はそんなに簡単なものですか。
二人は愛し合っている。
深く愛し合っている。
そういうことですか。(p.385)
キャシーは感情を押し殺し、こう問いかけます。
そもそも何のための作品制作だったのですか?
なぜ教え、励まし、
あれだけのものを作らせたのですか?
どのみち提供を終えて死ぬだけなら、
あの授業はいったいなぜ?
読書や討論はなぜだったのです(p.396)
いずれ死ぬなら、
なぜ教育を受け、人生で何が大事かを学ぶのか、
愛の深さや絆は、どう証明できるのか、
この二つの問いは、誰しも容易に答えられるものではありません。
しかしどんなに愛し合っているからといって、運命に逆らえないのは確かです。
残念ながら、愛の深さを証明する手立てもありません。
それ自体が無意味だからです。
本当に愛し合っているんだと宣言してみても、
永遠の愛を謳ってみても、
他人から見れば信憑性もなく、いくらでも偽れます。
だからこそ人は愛に苦しみ、悩み、不安になり、疑いをもってしまうのだと思います。
証明できるものがあれば、どれだけ有難いかと思うこともありますが、、、、。
互いの真の愛は、
次作『忘れられた巨人』の船頭が引き継ぎ、
再び私たちに問われることになるのでしょう。
キャシーはトミーとルースの介護人を全うし、
二人の死を見届けました。
そしてノーフォークの、
グレーの空の下で涙します。
最後に一瞬だけ、
トミーの空想をしてしまうのですが、
それを進めるのを自制し、
間もなく訪れる死を受け入れる覚悟を決めるのです。
人は余命が短いと悟った時、
絶望感と恐怖に見舞われるはずなのに、
最終的には運命を受け入れ、前向きに生きようとします。
そのエネルギーは、どこからくるのか、
やはりそれは、愛の力なのだと思います。
最後の最後まで愛する人と、
かけがえのない時間を過ごしたいと思うのではないでしょうか。
その愛の力を喪失したキャシーを思うと、
やはり、どうしようもなく悲しくなるのでした。
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この物語の良さは、
全体を通してのキャシーの語りにあると思います。
これまでの作品の、信頼できない語りとは異質なところが、美しさが際立っている所以かもしれません。
キャシーは多くの場面に於いて、言葉には出さないものの、胸の内の感情や怒りは隠さずストレートに語っています。
それは、心理的洞察に優れた、ジョージ・エリオットの作風に似ています。
キャシーがコテージで読んでいた本、
ジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』Daniel Deronda ,1988
もまた偶然とは思えません。
自己中心的なルースが、この本のあらすじをいかにも読んだかのように話そうとする場面がありますが、ルースのその性格は『ダニエル・デロンダ』に登場する女性、グウェンドレン・ハーレスを反映しているのではないかと思われます。
そして主人公ダニエル・デロンダの感受性の鋭さや、抑圧された感情はキャシーのそれに重なります。
また、彼はユダヤ人でありながら、裕福なイギリス人紳士に育てられた人物であり、出生にまつわる葛藤や苦悩は『忘れられた巨人』へと繋がっていくのではないかと感じました。
ちなみにキャシーが聴いていたカセットテープ、
Judy Bridgewaterの、”never let me go”という楽曲は架空のもので、
イシグロさんの好きな言葉なんだそうです。
2021.6.12 記
2021.10.31 更新