今は亡きポール・オースターと、J.M.クッツェーの往復書簡『ヒア・アンド・ナウ』を読みました。
原タイトル Here and Now: Letters, 2008-2011, 2013サミュエル・ベケットの研究を通して知り合い、意気投合したというお二人。
7歳年上のジョンの提案で文通がはじまったそうだ。
時は2008年~2011年の3年間。
ニューヨークに住むポールは手紙で、オーストラリアのジョンはファックスで、というスタイルが意外だった。ポールは作家活動もタイプライターを用いる人で、Eメールや携帯電話を好まなかったそうだ。
それにしても超多忙な世界的作家が、こうして手紙をしたためるとは、相手への敬意と友愛なくして成しえなかったことだろう。家族ぐるみの付き合いをし、海を渡って再会したときの高揚感も綴られている。
話題は多岐に渡っていて、
友情、スポーツ、食、性、言語、チェス、体調、社会問題、小説、映画、かくこと、などなど様々だ。
ときにユーモアをこめ、ときに議論し、ときにお互いを案じ、称え合う。文章を読むだけで、それぞれの心温まるお人柄が感じられるし、性格の違いもみてとれる。
家族や仲間、旅の話を盛り込み、ざっくばらんに話すポールと、冷静に思索にふけるジョン、といった感じ。たとえば友情について語るとき、ジョンはわざわざ図書館で哲学書を確認するといった徹底ぶりだ。
いちばん盛り上がりを見せたのは意外にもスポーツの話題だった。休日の午後を、テレビでスポーツ観戦するのは時間の浪費だといいながら、互いが熱く語り合うところは微笑ましかった。
ポールは、スポーツ観戦を読書に見立て「同じ物語を微妙に変化させ何千回も変奏した者なのに、尽きることなく渇望を抱いている」というところは、さすが作家ならではの表現だなあと思った。
同じようにクッツェーも、スポーツ観戦は必ずしも時間の浪費ではなく「人間がなしうることを目の当たりにし、高揚する瞬間は貴重だ」と考えている。
ただし、スポーツ観戦を美的快楽として扱うことには疑問を示していて、「僕の関心は美学より倫理にある」と弁論する。ちょっとめんどくさい?と思いつつも、嫌みなく読める彼の文章には温かみがある。それはの作風にも似ていて、まるでエッセイを読んでいるような感覚になった。
個人的には、ジョンの『マイケル・K』について、Kと名付けた経緯や思いに触れている点や、アルゼンチンの作家ボルヘスについての言及に興味をそそられた。
ボルヘスの作風にあまり好意的でないポールに反して、ジョンは「ボルヘスの寓話は、本物の哲学的深淵をもつ思考を広めようとしている」と評価していた。
また、『恥辱』が2008年トロント映画祭で上映されていたとは、驚きだった。オーストラリアでも公開されてようだが、日本にはきていないし、今はもう観れない?のは残念だ。
最後のほうは、ジョンの長引く不眠症を気遣うポールの優しさが印象的だった。まさかそんなポールが先立つことになるとは、だれも思っていなかったはずだ。
同時代に生き、お互いをリスペクトし合った作家同士の友愛の証が、ここに残されているというのは大変貴重であるし、これからもファンの記憶に残されることだろう。
最後の手紙は、クッツェーのこんな力強い言葉で終わっていた。(2011年8月29日)
世界は絶えず驚きを放出しつづける。われわれは学びつづけるんだ
翻訳は、ポール・オースターを山崎暁子さん、J.M.クッツェーをくぼたのぞみさんが手がけている。それぞれの作家について精通していたからこそ、二人の想いを損ねることのなく、言葉を変えて伝えられたのだと思う。素晴らしい訳だった。