Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

『シエラレオネの真実 : 父の物語、私の物語 』アミナッタ・フォルナ

秋の夜な夜な、この本を読んでいると、
コオロギの風情ある鳴き声が、
いつしか悲痛な叫びに変化していくような不思議な感覚をおぼえました。


アミナッタ・フォルナのノンフィクション。



原題は The devil that danced on the water : a daughter's quest (水の上で踊る悪霊)ということで、幻想的な印象を受けますが、本作は主にアミナッタ・フォルナの父の生涯と、自身の生い立ちを通してシエラレオネという国が破壊していく過程(1960年代~1970年代)が綴られていますので、和訳タイトルはこのようにされたのでしょう。原タイトルの意味は、最後の最後で描かれているので、是非読んでいただきたいと思います。


著者は幼い頃、いつも並行した二つの世界があったといいます。公的な大人の見せかけと、私的な子供ながらの無邪気な幻影。忘れなさいといって、大人はだれも教えてくれなかったことを、25年後に約一年かけて探り出しました。本書はその記憶の断片と事実を繋ぎ合わせた実録です。


アミナッタの父、モハメド・フォルナは、アフリカの西部にあるシエラレオネの貧しい農村で生まれました。奨学金を得てスコットランドへ留学し医師になります。そこで出会った女性モーリーンと結婚、第三子として生まれたアミナッタが生後6ケ月のとき、家族でシオラレオネへ移住。


理想をかかげ、医者として邁進していた矢先、政治の道へ誘われて議員となります。その後、財務大臣まで昇りつめますが、政策の行き違いから辞表を提出。別の党を結成するのですが、そこからが地獄の始まりでした。逮捕と釈放を繰り返し、反逆罪をでっち上げられ絞首刑に処されたのです。


時は1975年、アミナッタ11歳。その頃すでに両親は離婚、再婚していて、二人のきょうだいと共に実母とイギリスへ移ったり、義父の国ナイジェリア、義母のいるシオラレオネと転々とし、父が不在な中、幸と不幸が入り混じる不安定な生活を余儀なくされていました。


シエラレオネは1961年に英国から独立。数年後には政治的混乱が始まり、軍事クーデターや内戦が勃発。シオラレオネ革命統一戦線(RUF)による村人への暴力や残虐行為があったといいます。このような時代の波に翻弄された父をはじめ、本作では紛争による村人の生々しい惨事も描かれていますが、アミナッタは幼心に、それは幻想かもしれない、生きた幽霊だったかもしれないと感じていたというところに、哀れみを感じ、原タイトルとの関連性に気づかされました。


全ての真実を知った今、アミナッタはこう言います。
「25年もたったいまになって知るということは、これまでに経験したことのないような、圧倒的な無力感を残した。あまりにも長い間求めていた知識を手に入れたが、それには何かいいことがあっただろうか」と。


ひとつ知識を得るごとに、感情をひとつづつ奪われていく。
そのさきに来る無力感は、簡単に共感できるものではありません。


ならば知らなかったほうが良かったのか。
恐ろしい過去は語らず、閉じ込めておくべきなのか、
掘り起こすことで、苦しみが癒えていない人々の古傷に薬を塗るべきなのか。
いっそなかったこととして忘れるべきか。


答えは永遠にみつからないだろう。


しかしアミナッタは、もっと違った生き方があったはずと後悔しているわけではない。訳者のあとがきにもあるように、問題なのは、政治に翻弄された村の人びとが、状況が悪化するのを感じていながら、実際に起きていることにさえ気づかないふりをしていたことです。誰もがそのことに責任を感じず、沈黙を守り、権力に抵抗することができなかったことです。


これは決して遠い国の、遠い時代のお話ではなく、もっと身近なものとして考えさせられました。個人レベルに落とし込んで、あらゆる自分の行いや発言、身近な人への配慮、目を背けてきたことを振り返る良い機会になりました。


なんと巻末には、ユニセフ親善大使を務める黒柳徹子の特別寄稿があります。この本が多くの方に読まれますように、そしてアフリカ社会の魅力を知ってもらいたいと綴られていました。


アミナッタのトラウマや葛藤は『The Hired Man』でも如実に物語られていると感じます。
民族間の隔たりや、個人の記憶、
悪いことだけでなく、良いことも覚えておきたいという思いも改めて伝わってきます。
ranunculuslove.hatenablog.com


また、個人的、集団的記憶という難しいテーマを扱った作品に、カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』があります。
ranunculuslove.hatenablog.com