Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

「記憶の人・フネス」J.L.ボルヘス 

わたしは彼をおぼえている(わたしはこの霊的な動詞をつかう権利をほとんど持ち合わせていない。この世でただひとりだけ、その権利に値する男がいたが、彼は死んでしまった)、わたしは彼をおぼえている。

から始まるこのお話、ただごとではなさそう。
その後も「わたしは(彼を)おぼえている」を数回連ねている。


霊的な動詞をつかう権利に値する男とは、
いったいどんな人物なのか。
ボルヘスらしい、独特な表現が冒頭から異彩を放っている。


「記憶の人・フネス」は、
ボルヘスの『伝奇集』岩波書店, 1993(原タイトルFicciones 1935-1944)、第二部:工匠集のなかに含まれている短編。
(『世界の文学 9 ボルヘス篠田一士訳. 集英社, 1978. も同様 )


ボルヘス自身、この作品は「不眠の長々しい比喩」であると示唆している。
その男、フネスの狂人的な記憶による悪夢のようなお話なのだ。


フネスは19歳のある日、落馬し意識を失った。
目覚めた時には知覚と記憶に驚異的能力が備わっていた。
数か国語を覚えたり、星の数ほどの数を正確に覚えていたり、一日に起きたことを忠実に覚えている。故にその一日を再現しようものなら丸一日かかるということだ。


彼は災難によってこの能力を得たことは良いことだったと強がってはみるが、徐々に様子は変化する。
記憶とは、忘却がなければゴミ同然だ。
混沌とした記憶は体内に蓄積され消えることはない。


消えなければどうなってしまうのか、
彼をみつめるボルヘスの言葉は冷ややかだ。

彼は思考についてはあまり能力をもっていなかったとわたしには思われる。考えるということは、相違を忘れること、概括すること、抽象することである。過度に充満したフネスの世界には、細部、ほとんど連続した細部しかなかった。

フネスは死んだ。
人間は忘却がなければ生きていけないのだ。
不眠のフネスは、いつも川の流れに消されていく何かを想像していたから、消そうとしても消えない記憶に苦しんでいたのだろう。


しかしボルヘスにとって、フネスという男のことは忘れないで、覚えておく権利に値するのだから、なんとも皮肉なものだ。


そう考えるとこのお話は、記憶力が優れていたボルヘス自身のことなのではないかと、思ったりする。




参考にした書籍

『わたしを離さないで』"Never Let Me Go" カズオ・イシグロ

『わたしを離さないで』Never Let Me Go (2005)
カズオ・イシグロの6番目の長編小説です。


2010年には映画Never Let Me Goが公開され、
日本でも2016年にドラマ『わたしを離さないで』が放映されました。



2016年1月、ドラマを初めて観た時、
今まで味わったことのない衝撃が走ったのを覚えています。
牧歌的な映像美の中にある不気味さ、
グレーの服を着た子供たちと、
グレーな空模様、
いつか何かが起こるのでは?
という危うさがあって、
どうしようもない悲しみが生まれました。


特に主人公恭子の、
献身的で、感情を抑制したふるまいはどこか寂しく、日本人らしさを感じました。
原作の舞台は英国で、恭子はキャシーだというのに。


キャシーの静謐な語りは、
まるで湖のように波風がありません。
時に冷たさすら感じますが、
それはおそらく、何かを喪失した後の寂しさなのでしょう。



**********


本作はクローン人間達が、臓器提供のために生かされ使命を果たすお話ですが、
もちろんイシグロさんは、クローン人間の脅威(あるいは驚異)を示したかったわけではありません。
決して悲しいものでもなく、むしろポジティブな話にしたかった。シンプルな比喩を用いて、このような残酷で暗いシナリオを描くことで、わたしたち人間の生きている価値が、強調されるのではないかと思った、と述べています。


人間はいつ死ぬかわからない命を生きているのですから、クローンであるキャシーたちの余命が見えているとはいえ、それは私たち人間となんら変わりはないのです。


洞察力に優れたキャシーと、
癇癪持ちで繊細なトミー、
自己中で虚言癖のあるルースの
三角関係を軸とした共同生活は、ヘイルシャムという完全に守られた「防護泡 」から始まり、16歳でその泡から外の世界へ放たれます。


彼らは「教わったようで教わってない」数々のことについて、空想し、議論し、行動していきます。
その姿は、私たちから見て、そんなことは大きな間違えなんだよと、言うことができないほど完全なる純粋無垢でした。


ノーフォークへ「ポシブル possible」という親(自分たちのモデルmodelのようなもの)を探しに行くときも、


店で見つかった"Never Let Me Go" のカセットテープをみて、これはコピー(複製)ではなく、あのとき無くした本物そのものなのか?と思うときも、


真の愛を証明するために、トミーが苦手だった絵を描き始めるときも、


私たち読者は見守ることしかできず、
もどかしさに似た悲哀を噛みしめていきます。


それらが単なる空想にすぎなかったということに気づいたとき、彼らはどうしようもなく残酷で容赦ない現実に打ちひしがれてしまいます。


しかし「空想 fantasy」は、私たち人間が物語にそれを求めるように、彼らにとっても生きていく上で、なくてはならないものだったのでしょう。空想をしている間は満たされた気分になります。 この物語が寓話的で、ポジティブなものだと言っていたイシグロさんの思いが「空想fantasy」という言葉に載せて伝えられているような気がします。


さて、物語の山場はまぎれもなく、後半キャシーとトミーが、ヘイルシャムという防護泡へ再訪する場面です。
といってもヘイルシャムはすでに閉鎖されており、二人が向かった先はかつて彼らの絵を集め、展示館へ運んでいたマダムと、エミリ先生のいる家でした。


すでに三度の提供を終え、余命が短くなっているトミーに「猶予deferral」を許可してもらうためでした。
ヘイルシャム出身の特権として、真に愛し合った二人なら、余命を引き延ばしてくれるという噂を聞いたからです。


トミーはヘイルシャム時代に残せなかった絵をたくさん描いて持っていきます。
それは二人の愛の確信の材料でもあります。
ヘイルシャムでは絵が重要視されていたし、
魂の込められた絵は、その魂どうしの相性で真の愛を証明できると信じていたからです。
もちろんそんなものは空想に過ぎないと、あっさり拒絶されます。


外の世界で疲弊しながら、ヘイルシャムを心の拠り所に生きてきた二人が、最後の希望を求めてやってきた先に、マダムから下された言葉は残酷なものでした。

確信と言いましたね。
愛し合っている確信がある。
どうしてそうわかります。
愛はそんなに簡単なものですか。
二人は愛し合っている。
深く愛し合っている。
そういうことですか。(p.385)


キャシーは感情を押し殺し、こう問いかけます。

そもそも何のための作品制作だったのですか?
なぜ教え、励まし、
あれだけのものを作らせたのですか?
どのみち提供を終えて死ぬだけなら、
あの授業はいったいなぜ?
読書や討論はなぜだったのです(p.396)


いずれ死ぬなら、
なぜ教育を受け、人生で何が大事かを学ぶのか、


愛の深さや絆は、どう証明できるのか、


この二つの問いは、誰しも容易に答えられるものではありません。


しかしどんなに愛し合っているからといって、運命に逆らえないのは確かです。
残念ながら、愛の深さを証明する手立てもありません。
それ自体が無意味だからです。


本当に愛し合っているんだと宣言してみても、
永遠の愛を謳ってみても、
他人から見れば信憑性もなく、いくらでも偽れます。


だからこそ人は愛に苦しみ、悩み、不安になり、疑いをもってしまうのだと思います。
証明できるものがあれば、どれだけ有難いかと思うこともありますが、、、、。


互いの真の愛は、
次作『忘れられた巨人』の船頭が引き継ぎ、
再び私たちに問われることになるのでしょう。


キャシーはトミーとルースの介護人を全うし、
二人の死を見届けました。
そしてノーフォークの、
グレーの空の下で涙します。
最後に一瞬だけ、
トミーの空想をしてしまうのですが、
それを進めるのを自制し、
間もなく訪れる死を受け入れる覚悟を決めるのです。


人は余命が短いと悟った時、
絶望感と恐怖に見舞われるはずなのに、
最終的には運命を受け入れ、前向きに生きようとします。
そのエネルギーは、どこからくるのか、


やはりそれは、愛の力なのだと思います。
最後の最後まで愛する人と、
かけがえのない時間を過ごしたいと思うのではないでしょうか。


その愛の力を喪失したキャシーを思うと、
やはり、どうしようもなく悲しくなるのでした。


**********


この物語の良さは、
全体を通してのキャシーの語りにあると思います。
これまでの作品の、信頼できない語りとは異質なところが、美しさが際立っている所以かもしれません。
キャシーは多くの場面に於いて、言葉には出さないものの、胸の内の感情や怒りは隠さずストレートに語っています。
それは、心理的洞察に優れた、ジョージ・エリオットの作風に似ています。


キャシーがコテージで読んでいた本、
ジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』Daniel Deronda ,1988
もまた偶然とは思えません。


自己中心的なルースが、この本のあらすじをいかにも読んだかのように話そうとする場面がありますが、ルースのその性格は『ダニエル・デロンダ』に登場する女性、グウェンドレン・ハーレスを反映しているのではないかと思われます。
そして主人公ダニエル・デロンダの感受性の鋭さや、抑圧された感情はキャシーのそれに重なります。
また、彼はユダヤ人でありながら、裕福なイギリス人紳士に育てられた人物であり、出生にまつわる葛藤や苦悩は『忘れられた巨人』へと繋がっていくのではないかと感じました。


ちなみにキャシーが聴いていたカセットテープ、
Judy Bridgewaterの、”never let me go”という楽曲は架空のもので、
イシグロさんの好きな言葉なんだそうです。


2021.6.12 記
2021.10.31 更新


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『日の名残り』”The Remains of the Day” カズオ・イシグロ

日の名残り』(The Remains of the Day, 1989 )は、カズオ・イシグロの三作目の長編小説です。1989年には、イギリスで最も権威のあるブッカー賞を受賞した話題作。1993年に映画化されてからも、長く愛され続けています。



この物語の最大の魅力は、なんといっても老執事スティーブンスの語りにあるのではないでしょうか。彼は「信頼できない語り手」として知られていますが、そのような先入観がなくとも、いつか気づいてしまうのです。あれあれ?本当?何かごまかしてない?と。冷静沈着で、ときに滑稽なほど丁重な言葉の裏には、過去への憧憬と悔恨の念がありました。


あらすじは非常にシンプルです。
ティーブンスが休暇を取り、イングランド西部を車で旅した片道6日間の記録。
「片道」というのがポイントです。


旅をしながら、過去の栄光に想いを馳せ、執事たるものの品格と偉大さを自分自身に問い直します。そして旅の第一目的ともいえるミス・ケントンとの再会まで、彼女と共に従事したダーリントン卿時代の様々なエピソードが綴られていきます。


執事(butler) とは

執事とはイギリス発祥の職業です。上流階級の使用人のなかでも筆頭となる存在。卓越した知力、体力、そして独身であることが要求されていました。


もちろんイギリス以外でも執事は存在しますが、スティーブンスに言わせれば、
「ほかの国にいるのは単なる召使、感情の抑制がきかない人種は執事になれない
という、極端なご意見をお持ちのようです。


実際スティーブンスは、感情の抑制こそが「偉大なる執事」の「品格」だととらえています。同じく執事だった父の勇敢なエピソードを交えながら、執事たるものについて雄弁に語る一方で、非常に孤独で、狭い世界で生きてきたことが見て取れます。


その狭い世界からとび出し、旅に出たスティーブンス。最初に目にしたのは、イギリスの美しい田園風景。彼はこの風景を眺め「最良の装い」だと絶賛します。「装い」といえば、スティーブンスは旅行中でも服装に気を使います。ラフな格好ではなく、いつもの堅苦しい衣装を身に着け「偉大さ」とは、品位ある「装い」をすべきだと思っていたからです。美しい「イギリスの風景」はそのまま「偉大なる執事の品格」にあてはまるのでしょう。


ちなみに、旅行前にスティーブンスがイメトレとして読んでいた本『イギリスの驚異』シリーズ全七巻("The Wonder of England")(実在しません)は、20年も前に出版されたという設定です。美しい風景が今でも変わっているはずがないとワクワクしながら読むところにも、スティーブンスの視野の狭さがうかがえましたが、実際目にした風景に違和感はなかったのでしょうか、、、。

ミス・ケントンに会いたい!

ティーブンスは当時、ミス・ケントンにこう指摘されていました。
「なぜ、あなたはいつもそんなに取り澄ましていなければならないのです?」


旅の途中、スティーブンスはふとこのことを思い出し、数日前に届いたミス・ケントンからの手紙に想いを馳せます。そこには夫婦生活が破綻しかかっているとか、職務に戻りたいといったことが書かれていた(といいます)。彼女は夫と別れ、職務に戻りたいのではないかという憶測が頭からはなれず、この旅で彼女に会うことを決意したのでした。しかし彼女に会うのは、あくまで人手不足解決のためだと、読者に言いつくろうところが実に面白い。ミス・ケントンに会いたい!なんてお首にもださないのです。


「なぜそんなに取り澄ますのです?」
と突っ込みたくなる場面です。

ティーブンスの過ちはなにか

ティーブンスの執事としての黄金時代は、どんなものだったのでしょうか。序盤から何度か繰り返されるこの言葉、「過ち自体は些細かもしれませんが、その意味するところの重大さに気づかねばなりません」というのは、注目に値する言葉です。これは誰からいわれたのか曖昧にしていることからも、スティーブンスが耳をふさぎたくなるような言葉だということがわかります。では「過ち」とは何を意味するのか、いくつかのエピソードで暗にほのめかされているので書き出してみました。「言葉が意味を隠す」というイシグロの技法が光る部分でもあります。


エピソード①
同じ屋敷で働くスティーブンスの父(元執事)は、高齢ともあって度々業務に支障をきたしていました。ある日、踊り場にある志那人形の向きがいつもと違っていることについて、ミス・ケントンがこれは父のミスではないかと指摘。それを認めないスティーブンスとの真向対決が始まる。冷静を欠いたスティーブンスは、思わぬ発想をします。窓から逃げようか、突撃するように出ていこうか、、、。


エピソード②
ティーブンスが休憩中、純愛小説を読んでいると、偶然ミス・ケントンが部屋に入ってきて、何を読んでいるのかと聞きます。彼の手から本を取ろうとするミス・ケントンと、それに抵抗するスティーブンスとの静かな対峙。このときもスティーブンスは、突飛な発想をします。本を机に押し込み鍵をかけようかとか、逃げ道をさがしたり、、、。しかし表面上では冷たい態度で拒んだのです。


エピソード③
時代は世界大戦の狭間。屋敷では重要な国際会議がくり広げられていました。仕えていたダーリントン卿は、ナチスドイツに加担したとして非難されていました。スティーブンスは、卿がよくない方向へ流され、利用されていく過程を見聞きしていたはずですが、卿を守るため、見て見ぬふりをします。


エピソード④
国際会議の最中、スティーブンスの父が倒れ危篤になります。と同時に、ミス・ケントンから、ある男性に求婚されたことを聞かされます。職務中の私的な2大問題。激しく心が揺さぶられながらも、一貫して執事の品位を守り通そうとします。その結果、父を看取ることもできず、あわよくば引きとめてほしいというミス・ケントンの心も閉ざしてしまったのです。


これらのエピソードはどれも、スティーブンスの完全なるプロ意識から生じるものですが、やはりどこか痛々しい。偉大さや品格という「装い」の下で、私的感情を抑制するあまり、うらはらな言動を起こしてしまう。ケントンに指摘されたように「取り澄ます」こと自体が「過ち」なのか。栄光と引き換えに、なにか大きなものを失ったのではないか、些細な過ちが重大な問題を呼び寄せてしまったのではないかと、スティーブンスはようやく気づき始めるのです。


著者の思い

ティーブンスは確かに不器用ですが、感情の薄い冷酷な人間ではありません。分をわきまえ、自分の仕事に励み、ささやかな貢献をすることで、自己を確立しながら生きてきたのです。自分を守り保つために、自己正当化したり、見栄を張る行為は、人間だれしも身に覚えのあることで、国を越え、時代を超え、普遍的な人間の姿であるということを伝えているのではないかと思います。「わたしたちはみんな執事である」という著者のことばは意味深い。


待望の再会と空白の2日間

旅の4日目、ついにミス・ケントンと再会する日が訪れます。ただし、わたしたちはここで爆弾発言を聞くことになります。実は彼女と会える保証はないのです。つまり会う約束はしていないというのです。しかし会えなければ話が進みませんので、会えないはずはありません。


ここで空白の2日間をもうけられ、6日目の夜、スティーブンスが振り返るかたちで語られていきます。


20年ぶりに再会したケントンは今も美しく、丁寧で上品な話し方は決してスティーブンスの自尊心を傷つけるものではありませんでしたが、このときのスティーブンスの心は張り裂けんばかりに痛んでいました。悲しいかな、ミス・ケントンはもうダーリントンホールへ戻るつもりはないとのこと。確かにスティーブンスに思いを寄せていた時期があり、人生の選択を間違えたと思った時もあるが、今では夫を愛している、もうすぐ孫もうまれる、今あるものに満たされていたのです。


ティーブンスは笑顔でこう言います。

あなたには満足すべき十分な理由があるではありませんか(略)あなた方二人は、きわめて幸せな月日を迎えようとしておられます。愚かな考えを抱いて、当然やってくる幸せをわざわざ遠ざけるようなことをしてはなりますまい」

感動の名シーン。
心からの笑顔ではないにしても、実は笑えていなかったとしても、最後まで一貫して品位ある「装い」を脱がなかったスティーブンスは完璧でありました。永遠に結ばれない運命でも、出会ったことが尊いと感じます。「夕方(老後)は、一日(人生)でいちばんいい時間だ」とかみしめるスティーブンスは、今後の展望をジョークの練習に見出します。時代は変わってしまったけれど、ファラディ様のもとへ帰り、また新たな「装い」で貢献する人生を歩むのでしょう。


ウェイマスの桟橋での夕暮れ、スティーブンスの前向きな気持ちで物語は終わりますが、やはり気になるのが空白の2日間。彼はどうやり過ごし、どう感情をコントロールしたのでしょうか、、、。



2021.3.7記
2024.1.28更新


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カズオ・イシグロ ノーベル賞記念講演『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』

カズオ・イシグロの『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』(2018) は、2017年ノーベル賞受賞後の、記念講演を書籍化されたものです。

カバーを取ると美しい装丁です。
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本を開くと、左の頁に原文、右の頁に土屋政雄雄の和訳文がかかれています。
原文と訳文の文字数がちょうど同じぐらいなので見た目にも美しい。

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一般的に、英語を日本語に訳すと日本語のほうが文字数が多くなると言われていますが、翻訳者の土屋氏は文字数をできるだけ同じ量することが理想的と話しています。


全体で99頁、その半分で50頁ほどの中に、カズオイシグロの小説家としての、これまでの道のりが濃縮して書かれています。


イーストアングリア大学大学院に入学した、24歳当時の屋根裏部屋での生活から始まり、今の奥様との関係、日本、長崎の記憶、各作品の秘話、そしてブレークスルーのことなど、興味深い内容となっています。


「文学白熱教室」で語られていた内容と重なる部分もありました。


本作でしか知り得なかったことは、
日の名残り』のスティーブンスの性質は、歌手トム・ウェイツ歌声からインスピレーションを受けていたということ。歌詞ではなく歌声なのが重要です。感情を押し殺した表情の中に、一瞬だけそれが崩れ去るような歌声。


そして『わたしを離さないで』執筆前に起こったブレークスルー(breakthrough:困難から突破すること、革新的な解決策、新たな発見などの意味)のきっかけが、映画『特急二十世紀』だったというのは驚きです。まさにターニングポイントの夜というほどの衝撃を受けたと言います。


私はトム・ウェイツも、映画『特急二十世紀』も知らないなのですが、文学以外にも音楽や映画からも影響を受けた作品があるとは初耳でした。


人は誰でもターニングポイントとなる、その人にしかわからない「啓示の花火」が静かに光る瞬間があるとイシグロさんは言います。
それはめったにあることではなく、気づかないこともある。
敏感に感じとり、啓示を得たら、その何たるかを認識することが重要なのだそうです。


私自身も、今解決したい事柄と無関係な行動をしている時に、ふと降りてきたものに、ハッとした気づきがあることが確かにあります。
人生のターニングポイントとまではいかない小さなことですが、気分転換や、視野を広く持つことの有益さがわかる瞬間です。


さて具体的にイシグロさんは映画『特急二十世紀』を観た夜を境に、何が変化したかというと、物語の組み立て方、人間関係の立体化、読者の感情に納得させる響きを持たせることだったと言います。


なんといっても私が魅了されることは、
「感情」を伝えることを重視されていることです。
「感情」は、舞台がどこであれ、同じ人間として文化的、言語的な境界を越えてグローバルに分かち合えるものだというところに、納得と感動を得ました。


60歳を超えた今、
今後の社会を見据え、最善を尽くしていこうとする謙虚な姿がとても印象的でした。
新作『クララとお日さま』が出たばかりですが、
早くも次作を期待してやみません。

『浮世の画家』"An Artist of the Floating World" カズオ・イシグロ

浮世の画家』(An Artist of the Floating World, 1986 )は、カズオ・イシグロの2作目の長編小説。デビュー作『遠い山なみの光』に続き、戦後の日本を舞台にしています。1986年、ウィットブレッド賞を受賞。



簡単な あらすじ

老画家、小野益次は広い屋敷で一人、隠居生活をしている。孫とのふれあいを大事にする傍ら、次女の縁談が破談となったことを受け、過去に想いを馳せるようになる。15歳の時、画家になることを反対していた父に絵を燃やされた。その後、家を出て画家の人生を突き進む。浮世絵を学ぶために森田画伯に弟子入りしたが、しだいに仲間との享楽的な生活に疑問を感じ始める。そして松田という男との出会いから、戦争画家へと変貌。当時はその作風が市民に絶賛されたというが、戦後、新しい時代の流れに翻弄され、汚名を着せられることとなる。当時はそう生きるしかなかったと過去の栄光を振り返り、勝利感と満足感に浸る。しかし信頼できない小野の語りは、曖昧な記憶によって歪められていた。

原文の面白さと、ためらい橋

本作は、戦後の日本のお話を、英語で書かれ、その後邦訳されたものです。イシグロの構想は、原文は映画の字幕翻訳のような英語でなければならず、その背景に日本語が流れているというイメージ。これは原文で読む人にとって、やや違和感があるようなのです。英語を得意としない日本人でも、読みやすいとは感じるものの、なんとなくぎこちなさが残る文体となっています。


日本特有の言葉、例えば「縁側」「縁談」「切腹」「自殺」などは英語ではどう表現されているのか、気になるところです。原文をみてみると、縁側(veranda)縁談(marriage negotiation)切腹(harakiri)自殺(suicide)。そして「ためらい橋」は"the Bridge of Hesitation"。特に「切腹」は、これに対応する言葉が英語ではみつからない?ということで興味深い。


ところでその「ためらい橋」は、モデルとされる橋が長崎市に実在するようです。名前は「思案橋」。橋の向こうには歓楽街が続いて、夕方男たちが家に帰るか、夜の享楽にふけるか決めかねている様子から、そう名付けられたというということです。


長崎が舞台であるとは、どこにもかかれていませんが、著者のゆかりの地ということで、「思案橋」をイメージしたのではないかと思われます。


小野は今でも度々ためらい橋を訪れては、過去の偉業を振り返りノスタルジアに浸ります。
「わたしもときどき思案顔でその橋の欄干に寄りかかっているが、べつにためらっているわけではない(p.147)」
と何気に主張するところはおもしろく、『日の名残り』のスティーブンスのように、もしかして真逆のことを言ってないだろうか?本当はためらっていた?とつい疑ってしまう部分でもあります。


それは、その後の回想シーンで、弟子の信太郎とのやり取りの場面で明らかとなります。


信太郎は美術の教師を志しているが、過去の画家時代の活動において、小野と関わっていたこと、志那事変のポスター制作をしたことが不利になると予測していました。そして、過去を消したい、なかったことにしてほしいと小野に懇願します。困惑した小野は「なぜきみは過去を直視しない」と反論。信念をもって行動してきたことは恥ずべきことではないということを、小野はその後もあらゆる場面で主張することになります。


周囲から伝わる小野の自尊心

小野という人物は、デビュー作『遠い山なみの光』の緒方さんから引き継がれ、次作の『日の名残り』のスティーブンスに継承されているということは、イシグロ自身あらゆる場面で話されています。つまりこの三人は同人格の変奏であり、舞台や時代を超えなお生き続けるそのキャラクターは、とても興味深いものがあります。彼らはもれなく「記憶」を自由に組み替え、読者を翻弄させるのです。


「慎重な手順をとるように」
「自尊心が強すぎる」
「過去の過ちを認めないのは卑劣だ」


これらの言葉は、小野へ向けた周囲からの指摘であるが、誰から言われたか曖昧にしています。言葉だけが一人歩きし、幻聴のように降りかかってくる。それを振り払うかの如く、過去の行いをなんとか美化しようと必死に抗っていたのでしょう。孫の一郎と接するときも、なにげない会話から過去が想起され、物思いにふける場面が増えていきます。


そんな小野の心情は、現在住んでいる屋敷そのものにも反映しているように思われます。杉村家から賞賛を受けて買い取ったその屋敷は、当時は人も羨む門構えであったけれど、空襲によりガタがきて、今では修理をしなければならない状態。小野の自尊心が瓦解され、寂しさや孤独感が増していく様が、屋敷の様子からもみてとれます。


松田との出会が人生を変えた

森山の弟子として浮世絵を修行中は、師匠の画風を受け継ぐことは当然のことでした。その画風とは、ヨーロッパ風の色彩を織り交ぜた幻想的なもの。


しかし松田という人物との出会いを境に、小野の画風は明らかに変貌していきます。松田と見た、路地裏の貧しい哀れな暮らしぶりに衝撃を受け、問題となった絵を制作することに。その絵には、竹刀を持った勇ましい少年3人と、豪華なバーで談笑する男性、加えて日本精神を鼓舞するかようなキャッチフレーズが描かれていました。


この絵にショックを受ける同僚と師匠。「裏切者」といわれ絵は取り上げられ、おそらく燃やされたのでしょう。父親にも燃やされた、あのトラウマが不意に蘇るのです。


小野は次のような発言をして師匠の下を離れていきます。

現在のような苦難の時代にあって芸術に携わる者は、夜明けの光と共にあえなく消えてしまうああいった享楽的なものよりも、もっと実体のあるものを尊重するよう頭を切り替えるべきだ、というのが僕の信念です。(略)ぼくはいつまでも「浮世の画家」でいることを許さないのです」(p.267)

「浮世」floating worldとは、美しく享楽的な意味をもつ一方で、儚さ、この世の無常という意味もあります。本作のタイトルは、その両方の意味を含んでいるのではないでしょうか。浮かれたの中の生活から脱しなければならない。戦争は、世の中も人も無常にさせるけれど、画家として使命を果たすことが日本の為になるならば、たとえ悪事をはたらいたとしても、誇りを持ってい生きていけるのではないかという、ある意味、純粋無垢な信念が読み取れます。

全ては父への復讐だった?

小野の語りの中には、カメさんこと中原と、弟子の信太郎が頻繁に登場します。小野を尊敬し賞賛する二人の言葉は、我が栄光を浮かび上がらせてくれるとっておきの存在です。常に脇に置いておきたかったのでしょう。しかし読み進めていくうちに、あることに気がつきます。この二人の姿こそ、小野の父親が理想とする青年像ではないかということ。


振り返ってみると小野の父親は、かつて修行僧に助言されていました。息子(小野)は性格の弱さから怠け癖を生む、弱みが表に出そうになったらすぐに抑えなければ、ろくでなしになると。
そのため、息子の怠慢や意志の弱さを正し、自慢できるような人間に育てようという義務感を感じていたはずです。


自慢できる人間とは、この二人のように、不器用であっても周りに流されない、それでいて愛嬌がある、礼儀正しい人柄。信太郎に限っては、すでに美術界から離脱していますが「絵描きども」はろくな人間にはならないと侮辱した父にとっては、二人はまさに理想の鏡だったです。


小野はそれに気づいていたからこそ、都合よく利用する傍ら、世間知らず、消極的、野心の欠如などを挙げ、内心見くびっていた、あるいは嫉妬していたと考えられます。


もうひとつ気になるワードといえば「野心」です。
野心を燃やす」とはどう意味か、、、。


「お父さんが火をつけたのは、僕の野心なんだ」
「お父さんが燃やすのに成功したのは僕の野心だけだ」
と繰り返し言っていたのは、、、、。


絵と一緒に野心も燃やされた、
という意味だではなく、
絵を燃やされたことによって野心に火がついた!ということでもあります。
絵の焼却は、小野の野心の起爆剤にしかならなかったのです。


野心を燃やし、画家人生を全うしてこられたのは、心の奥底でメラメラ燃える「父への復讐」があったからともいえそうです。だとしたら、最終的に小野がかみしめる「勝利感と満足感」は、紛れもなく父親に向けられたものだったのでしょう。


感想

人は真実を突きつけられた時、どれぐらい品位を保てられるか興味があったというイシグロ。小野のように、まっすぐで不器用な生き方は、実は私たちみんなが持っている一部分であり、普遍的な人間の姿です。そんなところを否定せず、品位をもって、そっと見守る著者の思いに温かみを感じます。人生は儚くて短い、やり直すには遅すぎる場合もあるけれど、きっとうまくいく。イシグロの作品は、様々な解釈の可能性と、せつないけれども最後には明るい未来が用意されています。そんなところに魅せられ、本作も間違いなく何度でも読み返したくなる作品だと感じました。



短編『戦争のすんだ夏』は、本作の原形としてかかれたものです。↓

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2021.5.30 記
2023.11.24 更新