Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

ナイン・インタビューズ『柴田元幸と9人の作家たち』~カズオ・イシグロ~

本書は翻訳家、柴田元幸さんが自らインタビューし、翻訳されたものです。
ご紹介される9人の作家は以下のとおり。

シリ・ハストヴェット
アート・スピーゲルマン
T.R.ピアソン
スチュアート・ダイベック
リチャード・パワーズ
レベッカ・ブラウン
カズオ・イシグロ
ポール・オースター
村上春樹



もちろん私がここで取り上げたいのは、カズオ・イシグロさん。
その他の作家さんは、知らなかったかたのほうが多く、作品紹介もされているので、今後ゆっくり読んでみたいと思います。本の左頁はインタビューの原文、右頁は日本語とその解説がかかれていて、翻訳の勉強にもなります。さらに本書には、収録CDもついていて、生々しいインタビューの声を聴くことができるという、様々な楽しみ方がある一冊なのです。


柴田元幸といえば、カズオ・イシグロの短編『日の暮れた村』(A Village After Dark , 2001) の翻訳をされたかたです。とても読みやすかった印象はありますが、柴田氏については無知に近いほどでした。本書を読んでまず思ったのは、訳が素晴らしいこと。(素晴らしいから、こうして活躍されているわけなのですが)柴田氏の手腕にかかると、こうも生き生きと、親しみのある明るい会話になるのだと驚いてしまいました。翻訳というのは少なからず、訳したかたのお人柄が出るのだと、改めて思ったのです。


なぜなら以前『本当の翻訳の話をしよう』(2019) を読んだ時にも同様に感じたからです。

本当の翻訳の話をしよう

本当の翻訳の話をしよう

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この本の中には、ある英語の小説を柴田元幸と、村上春樹がそれぞれ翻訳し、比べるといった章がありました。もちろん、どちらの訳が正しいかを判断するのが目的ではなく、それぞれの持ち味を吟味し、評価し合うという、いわば言葉遊びのような試みです。お二人の違いのひとつは、日本語の長さ。柴田氏の訳した日本語の文字数が圧倒的に少ないのです。個人的には柴田氏の訳に魅了されました。原文をくずすことなく躍動的で、端的な言葉選びは、その人にしか出せない個性なのだと感じました。


さてさて、話をもどしますが、カズオイシグロはここで語ったことは、聞いたものもあれば、初耳のものもありました。色々な場所でインタビューを受けているせいか、ご自身でもいつ何を話したか正直わからなくなっているところが可笑しくて、時にユーモアもあり、肩の凝らない会話になっています。


今回改めて胸に刺さったことは、何度か耳にしている「わたしたちはみんな執事である」というフレーズ。これは『日の名残り』の語り手であり、主人公の老執事スティーブンスを指して言われていることですが、いかに私たちはみんなスティーブンスであるかということ。なんのことかわからないと思うので、イシグロの言葉を引用しながら説明したいと思います。


わたしたちの多くは、自分の仕事をきちんと果たそうとします。何らかの技術を身につけ、そのささやかな貢献を会社や組織、あるいはひとりの人間に向けて捧げているわけです。目の前の仕事に専念することで、プライドや尊厳を得ます。しかし、より大きな組織、政治や国に対して疑問を投げかけることはしません。スティーブンスでいうなら、主人が悪に傾倒していくのを見ても、意見することは自分の職分ではないと考えます。「私は自分の仕事を精一杯やろう、私の貢献をどう使うかは雇い主次第だ。ご主人が最良とお思いになる形で使ってくださればよいのです」と。

つまり、私たちの人生、私たちの努力が無駄に終わるか否かは、最終的には、そういった上の人間に左右されると思うのです (p.205)


わたしたちは無意識のレベルで、諦念とともに生きているのかもしれない。運命は変えられないと思っているかもしれない。それでも真面目に生きているし、それなりに達成感もある。ここは、わたしこそがスティーブンスではないかと思ってしまうほど共感する部分ですが、それだけでは終わらないのがイシグロさんの凄いところです。


ここで重要なのは、自分のした行動、良かれと思って行ったことが、個人や社会にどう影響したのかということ。それは当然ずいぶん後年になってから気づくことです。人生の黄昏時ともいえる晩年に差し掛かった時、本当にそれでよかったのだろうかと振り返り、その時は気づきもしなかったことに気づくのです。もっと別の生き方があったのではないか、自分の人生は無駄だったのではないかと考える時、はたして人はどういう行動をとるのかという、たいへん倫理性のある問題を問うているのです。


ティーブンスのようなステレオタイプな生き方を、否定することなく寄り添っているところも、イシグロ文学の奥深いテーマ性も、ご本人の真摯な声から、改めて感じ取ることができました。


カズオ・イシグロへのインタビューは、2001年10月25日に行われたものです)


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『忘れられた巨人』”The Buried Giant” カズオ・イシグロ

忘れられた巨人』(The Buried Giant, 2015) は、カズオ・イシグロ、7作目の長編小説です。これまでの作品と違い、三人称の語りになっているところに新鮮味を感じます。なかには登場人物が前面に出てきて、主観的に語る章もあります。さまざまな視点から物語をみつめることができる、ある意味実験的な作品だと思います。その効果は絶大で、ファンタジーという霧を帯びた―恋愛小説とも、歴史小説とも、冒険物語ともいえる―複合的な世界観において、個人の「記憶」や、集団の「記憶」をどう扱うべきか、深く考えさせる作品です。




あらすじ

時代は5〜6世紀、伝説のアーサー王の死後。平和なブリテン島の村に、老夫婦アクセルと、ベアトリスが暮らしていた。村の人々はなぜか記憶が曖昧で、不穏な空気が漂っていた。老夫婦は自分たちには息子がいたことも忘れていた。ある朝、太陽の光に促され、二人で息子を探す旅に出ようと決意する。途中、戦士ウィスタン、少年エドウィン、老騎士ガウェインと出会い、心強い同行者となる。しかし彼らと出会ったことで、人々の記憶を奪っているのは、雌竜クエリグの吐く息(霧)によるものだと知り、竜退治に同行することが先行目的となってしまう。そこには多くの困難が立ちはだかっていた。はたして記憶は戻り、息子とは再会できるのか。

ファンタジー&神話

雌竜クエリグの存在は、この物語に重要な意味をもたらしている。実際には弱りきっていたのに、役目を果たしたというのに、悪とみなされ退治される運命にある。表層的には、クエリグと勇敢に戦って記憶を奪い返すという目的地があるし、その道中で出会う悪鬼、妖精、魔法などにファンタジー性を感じる。他にも、村人の住処は洞穴式になっていて、J.R.R.トールキンの『ホビットの冒険』や『指輪物語』を連想させる。


しかし読み進めるにつれ、この物語の真相(深層)は、単なるファンタジーではないことに気づく。衰弱した竜と戦うことに価値をみいだせないのと同様、記憶を取り戻したところで、今さらどうなる?という単純な疑問から、とりわけ人間の復讐心というものを深く考えさせられるのだ。それが国どうしの問題となれば、とても恐ろしいこと。個人的な記憶においても、アクセルのいうように「忘れたままでいいじゃないか」という考え、つまり「グレーゾーン」を受け入れようという柔軟な思考は、現代社会を生きる私たちへのメッセージとしても聞こえてくる。著者はインタビューで、竜や妖精なしではこのテーマを語れなかったと述べるほど、答えのない倫理的な問いかけが多く潜んでいる。


また「記憶の曖昧さ」をうまくとりいれているこの作品は、一貫していない語りと、矛盾した口伝なども相まって、神話的な要素も感じさせる。

老騎士ガウェイン

神話的といえば、ガウェインの存在だ。ガウェインはアーサー王伝説に登場する円卓の騎士であり、アーサー王の甥でもある。本作でも、亡きアーサー王の甥として起用され、しかも老わせている。それにより確たる風格を手にした老騎士ガウェイン、若かりし頃は『サー・ガウェインと緑の騎士』 (" Sir Gawain and the Green Knight " 1400年頃 , 作者不明) という中世騎士道物語に登場する名高い騎士でもあった。イシグロはこの『サー・ガウェインと緑の騎士』という作品から、あるインスピレーションを受けたと述べている。中世イングランドの厳しい冬の土地環境だ。行っても行っても道らしき道もない、岩だらけの荒涼地、川や沼地に立ち込める冷たい霧、そんな風景の連続は、この物語の不穏な空気感をあらわすのに最適だったのだろう。


そんな中、イシグロはユーモアを忘れない。錆ついた甲冑、白髪まじりの頭、立ち上がる時などは介助を要するガウェイン。もはやあの頃の輝きはなく、つぶやく言葉さえ滑稽に映る。こんなことでは、

あなたが、かのガウェイン様とは、信じかねますわ。

『ガウェイン卿と緑の騎士』訳:菊池清明 p.81

と奥方の声が聞こえてきそうだ。


ところで、老ガウェインが醸し出す哀愁(ノスタルジー)に違和感を感じるのは私だけだろうか。ノスタルジーの定義は「過去の喜び、愛、幸福など肯定する心情に満たされること。また現在では失われて取り戻せないものへの渇望あるいは憧れ」である。どうして記憶が曖昧な彼がノスタルジーに浸ることができるのだろう。彼のつぶやきや怒りは信頼すべきではないのか、、、。


そこで考えたのは、イシグロはガウェインという人物そのものに、裏テーマであるノスタルジーを体現させたのではないかということ。が記憶を奪うなら、太陽はその逆である。太陽が記憶を呼び覚ますモチーフであることは、作中たびたび現れる描写からも明白だ。ガウェインの身にも幾度となく降り注いでいた光と影。それは太陽と霧がもたらしたもので「輝いていた過去 ⇔ 輝きを失った現在」に通じる。そう思うと、ガウェインの、その佇まい自体がノスタルジーそのものだったのではないかと感じる。


ガウェインの起用についてはこちらに詳しく論じられています。
アーサー王研究者である岡本先生の考察は圧巻。
『サー・ガウェインと緑の騎士』のあらすじもあり、過去のガウェインについて知ることができます↓

第三部「カズオ・イシグロアーサー王物語ーノーベル賞作家はガウェイン推し」
岡本広毅著(PP.259-278)

(表紙は他に2種類ある)


一部引用すると、

現代作家イシグロは、騎士あるいは人間として限界を露呈するガウェインに大いなる魅力を感じたことは想像に難しくありません。『忘れられた巨人』に登場する老騎士には、古代ブリテンの時代より数々の栄光と苦難を通して人間的深みを増した英雄ガウェインの面影をたしかに見て取ることができるのです。(p.276)


「人間的深み」のある人物に仕立て上げたというところに、イシグロのガウェインに対する特別感が伝わってきます。

復讐の継承

戦士ウィスタンと少年エドウィンの関係は興味深い。この二人はサクソン人であり、幼いころ母親が連れ去られた経験のある孤児である。ウィスタンは悪鬼に噛まれたとされるエドウィンを助け「若き同志」と呼ぶ。過去に起きたブリトン人による大殺戮の残虐さを伝え、この記憶と復讐心を共有し継承させようとする。その思いの強さは異様なほどである。悲しいことに、彼の「個人的記憶」は「集団的記憶」へと発展し、全てのブリトン人を恨むようにとエドウィンに約束させるのだ。エドウィンにしてみれば、優しく親切だったブリトン人もいたし、尊敬していたブリトン人もいたというのに。無垢な少年の、白昼夢のような回想シーンは胸をうつ。


良い記憶、悪い記憶とは誰が決めるの?

一方で、アクセルとベアトリスの夫婦間の記憶はどうとらえればいいのだろう。記憶の共有は、夫婦間の絆の強さを試されるほど重要なことなのだろうか。良い記憶と悪い記憶は夫婦間で一致しているべきなのか。とても複雑な思いで二人の結末を見守ることになるのだが、キーパーソンともいえる船頭の質問はあまりにも厳しい。クエリグが退治され、記憶が戻ってきた後、ベアトリスは「人生でいちばんの思い出はなにか?」という船頭の問いに対し、なにげない日常の一コマを取り上げたのはとても印象的だった。アクセルもそのことは覚えているといっていたし、息子のいる島(実際には黄泉の島)へ一緒にいけるはずだったのに、、、。神様はそうはさせなかった。神の判断?、、、そう思うと、最後で語る「船頭」は本当に船頭だったのだろうか、前半の「船頭」と同人格だろうか、そんなことを思いめぐらせながら、不条理な結末に愕然としてしまうのだった。

記憶の断片は、わたしの一部

原文のほうを読んでいて気になったのは「part 」という言葉だ。主に「全体の内の一部」という意味で用いられているが、ざっと挙げてみると、、、。

  • アクセルの一部はそう確信していた
  • 正しいことが一つだけあります
  • ごく小さなひとつにすぎない
  • 途中まではご一緒できるでしょう
  • 全部わかっているわけじゃありません
  • 霧が晴れるのを恐れているわたしがいる
  • 少なくともあなたの一部を守ってくれる
  • わたしの小さな一部
  • つぎの部分についてはわたしが多くの責任を負わねばなりますまい
  • その部分は言いたくなかった
  • 黒い影も愛情全体の一部である


こう眺めてみるといろいろと見えてくるものがある。


個人の考えは日々変化していくものだから、それ自体はアイデンティティを損ねるものではない。他者を受け入れることは、同情すること、共感することとは別物だし、愛し合うもの同士でも、同じ思いを永遠に分かち合うことではできないのではないか、ということを思う。それは皮肉にも「記憶」とは無関係である。イシグロはこの作品で「記憶」の問題を前面に提示しているが、その実、普遍的な人間の本質を描いているのだ。


原タイトルの、The Buried Giant (埋められた巨人)は「人びとの記憶」のメタファーである。土埃にまみれ、トランプをめくるかのように「記憶」をひとつづつ取り出すことに何の得があるだろう。掘り起こすべきか、埋めたままにすべきかという究極の問いには、ある部分(私の一部)では賛成であり、ある部分(私の一部)は反対である、とこたえるのが妥当かもしれない。


しかし冒頭で述べた「忘れたままでいいじゃないか」と思える瞬間は幾度とあり、以下の二人の台詞は、緊張の中でも安らぎを得られた言葉だった。
ガウェイン「この雌竜の息なしでは平和はなかった
アクセル「忘却のおかげでゆっくりと傷は癒えた

最後に、、、

最後の船頭の語りのシーンは、夕暮れ時、霧でかすんだ太陽(foggy sun)が海に落ちていこうとしていた。私はこの「霧でかすんだ太陽」」という、なにげない言葉を見逃してはいけないと思った。クエリグが倒され、今まで対になっていた霧と太陽が、仲良く合わさった瞬間だったから、、、。


海に落ちていくかのようなベアトリスに反し、アクセルと船頭は、霧で霞んだ太陽に促され、どこへ向かっていくのだろう、、、。


ハードカバー版のサンザシの木に、クエリグと、ふたりの人影があるように見えます。安らかに眠っている様子に救われる気がしました。

忘れられた巨人


悪夢は毒へ『セメントガーデン』イアン・マキューアン 

イアン・マキューアンの長編デビュー作、
『セメントガーデン』を読了。
(原題:The Cement Garden , Ian MacEwan , 1979 )


現代英国作家イアン・マキューアンといえば、カズオ・イシグロの、イーストアングリア大学時代の先輩ということで、以前から気になっていました。


本作は、家族の死体遺棄や、近親相姦などのショッキングな内容ではありますが、不思議と後味は悪くありません。


そしてなんと、カズオ・イシグロ初期の短編、Getting Poisoned (1981) は、この作品のパクリだと言われています。


イシグロはそれを認めていて「意識的に実験した」「イアン・マキューアンの物語を書こうとした」と述べています。イアン・マキューアンのことは、非常に流行に敏感な作家だと賛美し、当時はかなり影響を受けていたと思われます。


カズオ・イシグロGetting Poisoned についての記事はこちら ↓

ranunculuslove.hatenablog.com



『セメントガーデン』は、時代も国もわからない、とある郊外にぽつんと建った豪邸、そこに住む家族の崩壊の物語。
病弱な父と静かな母、そしてボク、姉、妹、弟の4人の子供たち。
ある日突然、父の手配で大量のセメントが運ばれてくることに、、、


14歳のボクの語り

ぼくが父さんを殺したわけではないが、旅立つときに背中を一押ししたような気がすることがある

冒頭の一文から、
ボク(語り手ジャック)は容疑者さながらの、危険な匂いが漂ってくる。
何かを隠しているわけではないけれど、全てを語らない、思春期特有の不完全な物言いは信憑性に欠け、それが逆に文学的手法として功を奏してると思う。「文字で感情を隠す」という語りの手法は、カズオ・イシグロ文学の特徴でもある。


結局父親の死因は、最後までわからない。
庭の手入れが億劫になった父は、庭一面にセメントを塗ろうと考えた。
ボクは手伝っていたが、トイレに行っている間に父はセメントに顔を埋めて死んでいた。


その後、母も病気になり寝室で死んだ。
残されたボクたちは、施設に入れられるのを避けるために、母の死を隠蔽。地下に運びセメントでコンクリート詰めにした。


両親のいなくなった家は、楽園と化し、子供たちは際限なき自由を手に入れる。


ボクは自慰にふけり、姉は彼氏と出かけ、妹は自室に閉じこもり、幼い弟は赤ちゃん返りをする。そして様々な奇妙な遊びを繰り返し、世の善悪すら麻痺していく。

セメントの怒り

セメントが運んできた自由な楽園は、皮肉にもセメントによって崩壊する。
母が埋葬されたコンクリートに、細い亀裂ができたころから、兆候はあった。


コンクリート割れ目はどんどん大きくなり、盛り上がり、隙間から母が覗いている。
もうこんなこと終わりにしなさいと、
切断されていくコンクリートが怒っているかのようだ。


その背後にチラつくのは、荒れ朽ちた近所の空き地と、遠くの高層住宅、プレハブ作りの廃墟、雑草で拾ったハンマー、妹にもらったSF小説、それらが繰り返し描写され、セメントのように硬くて冷たい殺伐とした社会が襲ってくる。それはボクやきょうだいたちの、孤独感と喪失感を反映しているともいえる。


そしてついに外部の人間により真実が暴かれる日が来た。


もう終わりだと悟った時の、長女の最後のつぶやきが、全てを物語っている。
なんと美しい最後だろう。


さらにボクも、、、

どうしてボクは、こんなに眠ってばかりいるのだろう

虚実のあいだを彷徨う、夢うつろな、眠っていたかのような時間だったのだろう。それは罪の意識などまるでなく、あまりも自然で美しいつかの間の悪夢だった。


カズオ・イシグロは、セメント毒(poison)に変え、新たな悪夢を紡ぎ出したのだ。


マキューアン、2作目は何を読もう、、、。

「砂の本」J.L.ボルヘス 

J.L.ボルヘスの「砂の本」を読了。
集英社 , 1987, 篠田一士訳 (原タイトルEl libro de arena 1975)


同じものがこちらの最初の章にあります。
集英社ギャラリー「世界の文学」ラテンアメリカ集英社 , 1990)



ボルヘスの数多の短編のなかで「記憶の人・フネス」→「アレフ」→「砂の本」と連ねて読みました。この三作品には同じテーマが潜んでいて、ボルヘス曰く「同じ主題の変奏」であります。


厳密に言うと「同じ主題の変奏」はまだ他にもあるそうですが、それはこれからのお楽しみにしようと思います。



「砂の本は」ほんの9ページほどの短いお話。
オークニー諸島から来たスカンジナビア人が、突如主人公(ボルヘス?)の家(アルゼンチン)にやってきて、謎の神聖な本を半ば脅迫的に売りつけます。
その本が「砂の本」なわけですが、、、、。


摩訶不思議な「砂の本」にたちまち魅せられた主人公は、先代からの家宝である聖書と物々交換にこじつけます。
彼は宝物となった「砂の本」を守るために、外出もやめ、友人関係も断ち、不眠症になっていきます。徐々に宝物が怪物に見え、怯え、挙句の果てに図書館の地下に隠す(捨てる)という始末。その後も怯えながら暮らしていくのでしょうか。おそらく件のスカンジナビア人も怯え続けているのでしょう。


最初は素晴らしく貴重と思えたものが、後に恐ろしいものになるというアイロニックな点が「フネスのもつ記憶」「アレフ」と共通しています。
欲望のまま、そのものを所有したものは、結果そのものに殺されてしまうのです。まるで魂をもった恐ろしい生き物のようです。救いの手はなく、ただただ虚しい。


ところでボルヘスが、「砂の本」を捨てる場所に図書館を選んだ理由は、過去に図書館で勤務していたこともひとつですが、次の言葉が根源となったのです。

一枚の葉をかくすに最上の場所は森である

面白いですね。





参考にした書籍



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ボルヘスの愛したベアトリス「アレフ」

J.L.ボルヘスの短編「アレフ」を読みました。


短く簡潔な文章で、幻想的な世界を描くという作風で知られているボルヘス
私にとっては、どの作品も決して簡潔な文章とは思えず、何度か読み返してなんとか理解できるほどのものです。


文章全体ではやや難解さを感じるのですが、簡潔なのは言葉なのだと思います。ボルヘスは自分の作品には辞書を引かなければわからないような単語を用いないようにしているそうですが、確かにそのとおりなのです。並外れた想像力や思想、そこから創出される異質な世界観を、誰にでも分かりやすい言葉でもって表現するその才能には圧倒されます。


アレフ 』 J.L.ボルヘス; 鼓直訳, 岩波書店 , 2017
(原タイトル:El Aleph,1949)


幻想小説神髄 』筑摩書房, 2012.牛島信明訳 
最終章に同じものが掲載されています。


ベアトリスとは、ボルヘスが実際に愛した人物、実在した女性の名前です。
(『砂の本』 (El libro de arena 1975) の「会議」という作中でも、図書館で出会った愛するベアトリスが登場します)


このお話の主人公はボルヘス自身で、他界したベアトリスが忘れられずにいます。
彼女と再び語り合いたいという渇望から、あるとき地下密室の「アレフ」に案内されますが、、、、。


そこで彼が見たものは

一瞬のうちに喜ばしいあるいは恐ろしい何百万もの行為

アレフ」というのはある物体の名前ですが、ここではあえて明かさないでおきます。ボルヘスの世界観を壊しかねないからです。


ひとつだけあげるとすれば、
アレフ」は「永遠」という概念をモデルにしているということです。


ボルヘスのいう「永遠」とは、過去、現在、未来を含み、父と子と聖霊からなる三位一体になぞらえています。過去は現在の中にあり、また未来も現在の中にある。摩訶不思議な、それら三つの時間のあらゆる瞬間を含む同時的存在なのです。


その同時的瞬間をとし「アレフ」に仕立て上げているということです。
宇宙のあらゆる場所、時間を含む一つの。とても想像しがたく、形而上学的な思想です。


ボルヘスは、この「アレフ」によって、あらゆる角度から、ベアトリスという女性の表層はもちろん、深層までも含んだ目まぐるしい光景を目の当たりにします。
その瞬間彼は眩暈を覚え、泣いていました。魅力的だった「アレフ」が恐怖へと変貌したのです。


人は過去を都合よく美化しながら記憶として残していきますが、良い記憶も悪い記憶も内も外も一瞬にして見せつけられてしまったら、どうなってしまうのでしょう。
「記憶は忘却を要求します」というボルヘスの名言が思い出されます。その川の流れのような作用が滞れば「記憶の人・フネス」のフネスのように死んでしまうのでしょうか。


これ以上ないほどの恐ろしい、一種の幻覚を見てしまったボルヘスは、徐々に現実をとり戻し、ようやくベアトリスの忘却を手に入れていきます。
その時のボルヘスの表現には、想像力を掻き立てられます。

歳月の悲しむべき浸食作用によって、私自身もベアトリスの目鼻立ちを歪めたり、忘れたりしている

もう「記憶を美化」することすら諦めたのだろう、
歪めることで忘却する」これも人生には必要なのだと感じます。


この作品の記憶と忘却の関係は、カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を彷彿とさせます。奇しくも同名ベアトリスがプリンセスとして出てきます。




参考にした書籍






忘れられた巨人
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記憶の人・フネス」↓
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