Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

珠玉の文学的遺書:ボルヘスの『シェイクスピアの記憶』

昨年末出版されたばかりの「シェイクスピアの記憶」は、ボルヘスによる最晩年の作品。


「文学的遺書」とも呼ばれている。


数多ある短編のなかで、唯一翻訳されていなかった作品だと知り驚いた。
本邦初邦訳ということで、大変ありがたく読ませていただいた。


遺書を読むように、ゆっくり味わいつくしてみると、

あなたに海をあげよう

というボルヘスの声が聞こえてくるような気がした。


(4つの短編集。「一九八三年八月二十五日」「青い虎」「パラケルススの薔薇」が収録されている)

あるかないかわからないもの、実体の見えないものから受ける恩恵は、どんなものよりも大きい

という老子の言葉があるけれど、漠然とした神秘を感じる一方で、裏を返せば恐ろしい。


シェイクスピアの記憶」はそんなお話。


きっかけは、ある寓話だった。

その昔、イスラエルのソロモン王は、光り輝く黄金の指輪を持っていた。それは、鳥の言葉を理解できるというもの。指輪は、ある物乞いの男の手に渡り、しばらく所持していたが、その価値が計り知れないものだったゆえ、売ることすらできなくなり、モスクの中庭で死んだ。指輪がどこへ消えたかはわからない。


これを基に「価値が計り知れないもの」は、本当に売り買いしてはいけないのか、与える側も、譲り受ける側も不幸になるのだろうか、ということを実証したお話である。


主人公で学者のヘルマンは、シェイクスピア国際会議において、ダニエル・ソープに出会う。ダニエルは個人の記憶とシェイクスピアの記憶を織り交ぜた伝記をかき、賞賛を得た人物だった。


ヘルマンはこの男から「あなたにソロモンの指輪」ならぬ「シェイクスピアの記憶をあげましょう」といわれる。シェイクスピアの探求を続けてきたヘルマンにとって、これほどおいしい話はない。


「いただきましょう」


ヘルマンは夜も眠れず高揚する。シェイクスピアが私のものになる!私がシェイクスピアになるのだ!と。徐々にシェイクスピアに近づいていくように感じ、刺激さえ与えれば、いつでも思い出すことができるように、記憶の貯蔵庫をつくりあげていった。


しかし記憶がもたらすものは、不思議と文学的なものではなく、聴覚的なものだったり、状況的な一画像だったり。いわば文学創作に関わる素材のようなものであった。


さてヘルマンは、シェイクスピアに成りすまし、彼のような小説を書けるだろうか。ダニエル・ソープのように伝記をかけるのだろうか。


ヘルマンはやがて二つの記憶、シェイクスピアと、ダニエルに支配され、呑み込まれそうになる。体内が、徐々にシェイクスピアで埋め尽くされていく傍ら、押し出されていくのはヘルマン自身の記憶。自分が自分でなくなる恐怖を感じはじめる。自分のアイデンティティを守りたかったのだ。


「与える側は永久にそれを失っていき、受け取った側は永久に意識の中にとどまる」という寓話の原理を知ったいま、ヘルマンの幸福感は、即座に解放されたい欲望へと変貌していった。


ついにヘルマンは、その記憶を別の男へ受け渡したが、新たな葛藤が彼を襲う。


記憶は本当に離れていってくれるのだろうか、しかし永久に失ってしまっては、もうシェイクスピアを愛することもできないのではないか、、、。


そんな彼を慰めたのは、文学ではなく、やはり聴覚的なもの、バッハの音楽だった。という最後の部分に、悲哀とアイロニーを感じずにはいられない。


記憶を扱うのは本当に難しいと、カズオ・イシグロも言っていたなあ、、、。
儚くも奥ぶかい寓話であった。

同じテーマの2作品もオススメ。

●記憶が蓄積して消えない男の話。人間は忘却がなければ生きていけない。
ranunculuslove.hatenablog.com

●最初は素晴らしく貴重と思えたものが、後に恐ろしいものになるという話。
ranunculuslove.hatenablog.com

読んでいない本について堂々と語る方法

『読んでいない本について堂々と語る方法』を最近知りました。衝撃です。なんとこの書籍、2007年にフランスで出版されるやいなやベストセラーとなり、30か国以上で翻訳されました。著者は、文学教授であり精神分析医でもあるピエール・バイヤール。特異な観点から徹底的に裏付けされたロジックは必読です。




そもそも、何をもって「読んだ」といえるのか。熟読、再読しても、全てを把握し記憶するのは不可能です。内容が頭に入ってこず、読んだそばから忘れていくのであれば、読んでいないのも同然です。


反対に「読んでいない」はどうでしょう。単に忘れているだけだったり、途中で挫折した、人から聞いてあらすじは知ってる。あるいは映画で観たから読んだ気になっている場合もあります。


こうみると、あんまり変わらないなあと思ってしまいます。著者がいうように、読書はとらえどころのない行為であり、本当に「読んだ」のか「読んでいない」のかを問うことは、無益なことなのかもしれません。


ではなぜ「読んでいない本」についてわざわざ語る必要があるのでしょう、、、。


実はこのスキル、職業柄避けられない環境にいる人(例えば教師や書評家、コメンテーター、司書など)をはじめ、多くの人々が身につけるべき創造活動だというのです。


そこで重要なのは「書物についてではなく、自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて、自分自身に語ること」だと主張します。


語ること(書くこと)で自分と向き合い、そのことが素晴らしい創造活動となる、ということはなんとなく理解できます。読書ブログを書くうえでも、大いに役に立つと思うのですが、著者がかかげる以下の心構えをみると、なかなか難しいなあと感じてしまいます。


「堂々と語るたための心構え」

  1. 気後れしない
  2. 自分の考えを押し付ける
  3. 本をでっち上げる
  4. 自分自身について語る


各々については、ひとつづつ章をもうけ、大真面目に検証されています。興味ある方はぜひ読んでいただきたいです。


さて、本の読み方について話を戻しますが、私が激しく動揺したのは、とある司書(ローベルト・ムージルの小説『特性のない男』に登場する司書)の思想がおおきく取り上げられていたことです。とにかくその司書というのは、


本は読まない。
目録や目次は読む。
書物に無関心ではない、むしろ好き。
書物を読むことを避けているのは、図書館の中で自分を見失わないようにするため。
というのです。


こ、これはもしかして、書物の森で溺れかけている、いや、溺れないように気を付けている私と同じでは?と思ったのです。


職業上というよりは、趣味の域に近いですが、私は目録をみたり、書誌情報(出版年、著者、大きさ、ページ数、言語、注記、目次、あらすじなど)を眺めるこが好きなのです。とくに目次は重要な手掛かりとなるため、ひとつの検索システムで出てこない場合は、他機関をあたったりします。そこから関連本を探すこともできます。


そしてその情報をもとに、原本をパラパラしたあと、この本にこんなことが書かれていた、書かれているはず、ここを読むといいです、おもしろかった、わかりにくかった、などという情報を周囲の人に発しているのです。


つまり、すでに私は、読んでいない本について堂々と語っていたのです!!


衝撃です、、、。


個人的に読む本も、ブログにとりあげる本以外は正式に「読んでいない」です。ぱらぱらと流す程度で、興味がわくところだけ熟読したり、メモをとったりします(斉藤孝氏はこれを「濃淡読み」と名付け、さまざまな著書で広く勧めています)。そうすることで読書量が増し、得られることも多い気がします。例の司書にかっこよく代弁していただくと「個々の書物に首を突っ込むよりも「全体の見通し」を重要視すべき」だと思うからです。それは図書館の海で自分を守ることでもあります。


ここでいう「全体の見通し」というのは、人生において様々なことに応用できる概念だということも、本書でくわしく述べられています。なにごとにおいても、物事を大きくとらえることが大事なんですね。


なんだか読み終えるころには、読書方についてはどうでもよく思えてきました笑。


ということで本書は「読書&アウトプット」だけではなく、人生観についても同時に学べる良書だと思います。最後に著者の考える究極の理念をご紹介して終えたいと思います。

真の教養とは網羅性をめざすもので、断片的な知識の集積に還元されるものではない


おまけにもう一つ、
訳者のあとがきの一コマがおもしろかったのでここに引用します。

ひょっとしたら、この本だって「読まずにすませる」輩が出てくるかもしれない。ピエール・バイヤールは結局自分で自分の首を締めていることにならないか。これはピエールい早くしらせてあげなければ、、、。


※参考文献
●『特性のない男』ローベルト・ムージル著 (1964)

第二巻100章で、宮廷図書館の司書が登場する。

国立国会図書館デジタルコレクションからも読めます。
dl.ndl.go.jp


●『図書館は生きている』パク・キスク著 (2023)

本書を意識した「読んでない本ついて司書が語る方法」という章がある。司書である著者の読書癖に、似たものを感じる。


●『誰も教えてくれない 人を動かす文章術』齋藤孝著 (2010)

本というものにあまり過大な期待をもってはいけない、ということで「濃淡読み」のススメあり。

「記憶」を伝え残していく使命~知られざる震災後の図書館員の物語~

おくればせながら、能登半島地震で被災された方々へ心よりお見舞い申し上げます。


今朝のニュースで、被害を受けられた富山市立図書館が再開されたことを知りました。


約10万冊の本が床に散乱したとのこと。


元旦(休館)ということで人的被害が抑えられたことは不幸中の幸いであったと思います。


そしてわずか10日間で復旧させた職員の皆様には頭が下がる思いです。


再開を待ちわびていた利用者さんの温かいコメント、労いのお言葉に、思わず目がうるみました。


何気ない日常に、ありがたみを感じます。


今できることを真摯にやっていくしかないですね。


私の職場でも、地震への対策と、地震発生時の利用者の誘導について、改めて見直していたところです。


今日たまたま「資料保存」についての本を読んでいると、


2011年の東日本大震災津波で被災した、陸前高田市の図書館の感動の実録がありましたので、ここでご紹介したいと思います。



岩手県陸前高田市にある市立図書館は、津波により7人の職員全員が犠牲となり、すべての蔵書8万冊が流出しました。


泥とカビで手つかずの状態が約一年続き、ようやく救済活動が始まります。


ここにしかない貴重な郷土資料も多く発掘され、岩手県立図書館が中心となり、どの資料をどう残すかの検討がなされました。


岩手県立博物館に引き取られたもの、盛岡大学図書館においてデジタル撮影保存されたもの、東京都立図書館へ修理依頼したもの、それぞれの資料がいちばん良い方法で再生、保存することに成功したのです。


そこには、図書館員たちの涙ぐましい努力と、あきらめない心がありました。


当時、東京都立図書館で修理を担当した、本書の著者でもある眞野節雄氏は、資料状態をみたときの思いをこう綴ります。


これは犠牲になった図書館員たちの形見だ」と。


そして発掘、救出作業にたずさわった図書館員は、泣きながらこう言います。


「郷土資料をもう一度集めます。陸前高田市歴史を残し、伝えていきたい」と。


なんとしても資料を生き返らせるという熱意と、


この土地の「記憶」を、時代を越えて伝えていくんだという強い使命感に、ただただ身の引きしまる思いがしました。


「歴史」とは、たんに「資料」が伝えるものではなく、その資料を作った人、保存し伝えていこうとした人、そのすべてが「歴史」である。


著者のこのお言葉が、このたび被災された図書館員の方々への希望となりますように。


本書は、図書館資料保存の取り組み方、修理の意味、考え方についてのバイブルでもあります。本を愛する多くの方々にぜひ読んでいただきたく思います。

新王の帰還「ネズミ捕り Ⅲ 新王と旧王」ナオミ・イシグロ『逃げ道』より

「ネズミ捕りⅡ」のつづき

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ついに最終章。
ここで急に語り手が変わるので、一瞬戸惑ってしまうけれど、新王の、違った視点で物語る「アナザーストーリー」が始まる。視点が変わると物事の見え方も変わり、勇気や希望が芽生えるということを、改めて気づかせてくれる。「perspective」のメッセージをしっかり受け止めたい。


ところで、忘れてならないのは「ネズミ捕り」の存在。彼はもうこの世にいないのだろうか、、、。


*******


王宮にはまだ旧王の亡骸が安置されていた。尊敬していた父が急死しショックだった上に、愛犬ルーカスも失った。さらに「ネズミ捕り」に、惨い仕打ちをしてしまったことに罪を感じ、新王は精神的不安定に陥っていた。我こそが「モンスター」ではないのか。これからどうすればいのか、父の助言や励ましがほしくて王宮に戻ることにした。


真実と空想が曖昧になるほど弱っていた新王は、記憶の断片を辿り、ぽつりぽつりと過去を繋ぎ合わせていく。亡き王(父)のこと、ルーカスとの出会い、母と姉、ねずみのこと。しかしよく覚えていないことと、はっきり覚えていることが明白に分かれていることもあって、信頼できない語り手といえそうだ。つまり「覚えておきたいこと」と「忘れたいこと」を無意識に振り分けているように思えるのだが、父カズオ・イシグロの作品のように深読みするのは、ここでは控えておこうと思う。


この物語の山場はやはり、新王と父の亡骸が、思いがけない冒険に出る場面である。なんという奇想天外な発想なんだと思ったが、第一章と第二章で起きた惨事に比べたら、全然マシである。それは、ささやかだけど、明るい光が見え始めたからだと思う。(亡骸をひきずって)父と一緒に外の世界へ旅をし、新たな視点でこの世界を見渡したいと決意した時の新王には、もう弱さとか、自信のなさは感じられなかったし、心の闇を解放しようと努力しているように見受けられた。たくましさが感じられた。そして旅の途中で聞こえてきた父の言霊「そなたは道を見失っておる、、、云々」は、どんなにか彼の心を突き動かしたことだろう。


そして、なんと「ネズミ捕り」は生きていた。
父との最後のお別れのとき、ふと現れ、新王の助けになった。彼のおかげで本当の意味での父とのお別れができたのだ。あのような惨事の後だというのに、復讐心などなく、すべきことをしたまでです、と言ってのける「ネズミ捕り」には頭が下がる。心底誠実で、献身的で、紳士的な「ネズミ捕り」。いま目の前にいる彼は、新王の心を映し出す鏡のような存在だから、きっと新王も同じ思いなのだろう。もう誰も恨まない、愛犬ルーカスをちゃんと埋葬し、執着を手放す、そしてなすべきこと、王という使命を全うしようと、そう心に決めるのだった。紆余曲折の末、二人は無事、自分の持ち場へ帰還した。


新王の、いや二人の成長物語は、ここで幕がおりる。



ちょっと待った!
綺麗すぎはしないだろうか?
父の死因は?姉とねずみが絡んでる?
姉は愛するネズミが死にゆく道具を、なぜそこまで褒めたの?
新王は最後「ネズミ捕り」の仕事を支援するといっていたが具体的にはどういうこと?


など、いろいろ疑問点も残っているが、読んだその時の感覚と解釈を楽しめるものとして、この物語の紹介を終えたいと思います。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。



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欠けたピースは永遠に埋まらない 「ネズミ捕り Ⅱ 王」ナオミ・イシグロ『逃げ道』より

「ネズミ捕り Ⅰ」のつづき

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第二章では、The King と副題がついているとおり、いよいよ新王が登場する。ネズミ捕りと新王、新たな心理ゲームの幕開けである。それは、エセルを巡る取引であり、お互いの内面をえぐり出すようなせめぎあいとなる。約束は果たしあえるのか、、、、ナオミ・イシグロの細やかな情景描写に導かれ、胸を打つ展開となる。


(ここからネタバレあり)

未熟な新王

毒を盛ったのはエセルなのだろうか。
「オレ」は雪の中から這い上がり、凍てつく森をさまよい、一軒の小屋にたどり着く。ここに新王がいるはずだ。王宮から逃げ隠れているというエセルの異母弟が。「オレ」を雇った彼に会えば、毒の謎が解けるはずだ。



迎え入れてくれた主人は確かに新王であったが、王の風格など皆無であり、少年のように痩せ細って薄汚れていた。一方で、ネズミ捕りの「オレ」も、未だ毒が抜けきらない死人のような様相だったから、似たようなものだ。写し鏡のような二人。隠し持っている心の闇も同じであろうか。それを示唆するかのように、二人は会話中、お互いの言葉をオウム返しし、モノマネする場面が幾度とあり、切ないけれど、ちょっと笑えたりもする。そこに新王の幼さが見てとれる。退屈だった子犬との生活に刺激を求め、なにか面白い話はないのか、歌や踊りはしないのかと「オレ」に詰め寄るのだった。


新王は、外の世界を完全に切り離していた。作りかけのジグソーパズルのような美しい風景は、空想上の異世界であり、自分の居る場所ではない。言い換えると、薄汚れたこの小屋に反して、外の世界が美しくあってほしいと願っているわけだが、そんなものは綺麗ごとにすぎない。未熟な新王は、外の世界に幻滅したからこそ、この狭き世界に逃げてきたのではなかったか。しかし一向に充たされない空虚な自分にまた幻滅するという、不のループに陥っていたのだろう。その憂いは、完成させる気のないジグソーパズルに映し出されていた。

姉エセルと同じものが欲しい

新王は、姉のエセルに嫉妬していた。幼いころから愛情を向けてくれなかったからだ。エセルが賞賛した「仕掛け道具」を自分にも見せてくれ、自分にも同じものを作ってくれと「オレ」に迫る。もし気に入れば、エセルと仲直りする方法を教えてやると約束した。

You must make us a new trap, Mr Rat Catcher,



「オレ」は応じるしかなかった。くだんの毒について、エセルの潔白の証拠がほしかったのだ。「オレ」は仕掛け道具を一からつくるために森へ戻り、サンプルとなるネズミを探し始めたが、そこでまた肩透かしを食らったような気分になる。ネズミの側は逃げる気もなく、まるで自ら身を差し出してくるような動きをする。あの子犬といい、危機感もなくのうのうと生きている連中は嫌悪の極みである。時間の無駄だと諦め、記憶のサイズで仕掛けを作ることになった。


あとから考えると、ここに「オレ」の最大のミスがあったのではないかと思ってしまう。ナオミ・イシグロの綿密なもくろみなのか、若干寒気がする。しかも、完成した仕掛け道具は、どれほど想像力を駆使しても、なかなかイメージがつかめない。今回はAIさんも思うような画像を作ってくれなかった。実はそれが狙いなのだろうか。読者の想像力を曇らせ、曖昧にさせるような何かがある。煙に巻かれた私たちのほうが罠にはまったのかもしれない。


なんのことかは、後に明らかになるが、ともかくも「オレ」は新王を満足させるであろう仕掛けを完成させたのだ。


そう、たしかに

I have kept my side of it.

しかし「オレ」はそれを披露する前に、新王側の約束を守らせようとした。エセルのことである。「こんなささやかなゲーム」のことなど忘れたふりをする新王は、「オレ」の圧力に根負けし、ついに重い口を開いた。


姉は幼いころからネズミだけが遊び相手で、ネズミを愛していた。「オレ」を雇ったのは、ネズミがいなくなれば、姉の愛情を自分に向けさせることができるのではないかと思ったから。姉への復讐心は根深いのであった。新王がエセルを反逆し、エセルは「オレ」を反逆する。この構図こそが最大の心理ゲームだといえそうだが、つまるところ「オレ」はエセルを愛したいのであれば、もうネズミ捕りとしての仕事が出来なくなるというわけだ。エセルをとるか、新王の使命を全うするか、板挟み状態だ。このあたりは映画『グリーン・ナイト』の騎士ガウェインの窮地に当てはまるだろうか。

衝撃の事態!怪物が火だるまに!

今度はそなたの番だ。さあ、約束を果たすのだ。

It is your turn to honour your promise.・・・
Now you must fulfil your end of the bargain.


そう促された「オレ」は我に返り、渾身の作「新たな仕掛け」を披露する。あの時と同じく、構造の説明には抜かりがない。しかし先ほどから子犬が騒がしい。自分のおもちゃだと勘違いし興奮しているのか。その瞬間、あっという間に子犬が仕掛け道具に駆け寄り、上っていってしまった!その先に「逃げ道」はないはずだ。叫ぶ新王、冷静な「オレ」。そして無残にも死する子犬、、、、。


あの時の、記憶にたよったサイズ測定を思い出してみよう。「オレ」はネズミではなく、わざと子犬の身の幅に合わせて仕掛けを作ったのではないかと、ここにきて疑ってしまうのだ。


さらに衝撃は続く。狂ったように取り乱した新王は、暖炉の火を用いて、炎の棒を「オレ」向けて落としてきた。


「きさまは正真正銘の怪物だ!」


「オレはネズミではない!モンスターではない!」と再び聞こえてきそうだ。
火だるまになった「オレ」。死に物狂いで雪の中へ、そして凍った湖へ身を投げる。今度こそこの世の終わりなのか、、、、。


そういえばエセルには味方がいた。
妖怪婆と、屋敷にいた弁護士ショーだ。
ワインの毒については、、、そういうことだ。


 次回につづく

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