Ranun’s Library

書物の森で溺れかける

あなたは何を求めているのか「ネズミ捕り Ⅰ」ナオミ・イシグロ『逃げ道』より

「ネズミ捕り The Rat Catcher Ⅰ~Ⅲ」は、ナオミ・イシグロ短編集『逃げ道』( Escape Routes , 2020 ) に掲載されているお話。間をあけた三部構成になっていて、その存在感は際立っている。間に入るお話は、どれも現代を舞台としているのに「ネズミ捕り」は、ペスト菌による黒死病が大流行した中世の暗黒時代を思わせる。


時代を往来しながら読んでいて思うことは「逃げ道」を探したくなるような人間の心理は、今も昔も、変わらずに在るということ。自覚のあるなしに限らず、人が隠し持っている心の弱さは、他者との交流の中でいずれ表面化し、それに向き合うべき時が必ずくるのだということを教えてくれる。


「ネズミ捕り」をⅠからⅢへと読み進めていくと、私の脳内は、映画『グリーン・ナイト』の世界観にかなり近づいていった。青二才若王、冬の森、ゲーム、五芒星、緑色、きつね(犬)などのモチーフたちが息づき、ダークなのに美しい映像と、あのコミカルな人形劇が目の前に現れるようだった。


もうひとつ浮かぶのは、小説『忘れられた巨人』。父カズオ・イシグロを意識するつもりはなかったが、やはりチラついてしまう。中世、亡き王、害獣退治、船頭と老婆、罠、慈悲と復讐心など、こちらも象徴つながりが多くみられるからだろう。既視感に満ち満ちた「ネズミ捕り」は、前途2作品のパロディとなるの可能性もなきにしもあらず。


と、そんなことを想像しながら読むのもよし、先入観なしで読むのもよし、是非多くの方に読んでいただきたい作品である。


それでは、物語の第一章を紐解いていきましょう。


幻想と怪奇、光と闇が交錯するダークファンタジーの境地。
その幕開けは、、、とあるゲームの始まりだった。

                     
                     

(*ここからネタバレあり)

巨大王宮に王がいない?

舞台は新王が戴冠したばかりの架空の王国。怪物然とした巨大な王宮に、ひとりの男がやってくる。通称「ネズミ捕り」。語り手の「オレ」でもある。世に蔓延る疫病の感染源ネズミを駆除するために「オレ」は雇われた。もちろん屋敷の中が対象であるが、不思議とネズミを見かけない。それどころか人の気配もなく、会ったのは出迎えてくれた老婆のみ。この不気味な婆さんは、ハウスキーパーと思いきや、実はここに住む一人娘の母だった。「オレ」は部屋に閉じ込められていた姫エセルを見つけ、淡い恋心が芽生える。エセルには異母の弟がいて、その人物こそ成りたての新王だというが、すでに家を出ていって不在なのだ。亡き王との関係も気になるところだが、それは第三章で明らかになる。

ネズミとの心理戦

「オレ」は語り口からすると、やや下劣な印象を受けるが、慈悲心のあるロマンティストでもある。そんな彼の心理描写は実におもしろい。一度もネズミに遭遇しないのは、あちらがオレを避けているのだろう、ツワモノがきたと噂しているに違いない。ならばこちらにも出方があると企み、お手製の毒を盛る。「エメラルド・ダスト」と名付けられたその毒は鮮やかな緑色をしている。ネズミが色を識別できないことを承知の上で、なぜそこに美を追求したのだろう。そこに慈悲心は感じられず、ネズミの死後を始末する自分への慰め、せめて美しいビジュアルで迎えられたいという、自己チューとも、弱さともいえる。王からの使命感に囚われ、こうして楽しむことでしか「逃げ道」がなかったのかもしれない。


しかしここは「まだゲームを楽しむ初期段階であった」


毒で死んだネズミとはいえ、やっと出会えたことは好都合だった。ネズミの仕掛け道具(罠)を緻密に組み立てるために、その身の測定が必要だったからだ。細部までこだわり抜いた仕掛け道具とは、いったいどんなものだろう。イメージが湧いてこなかったので、生成AIに助け求めた。プロンプトを駆使して出来上がったのはこんな画像。
(今回の画像は全て生成AIを利用した)



           https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/r/ranunculuslove/20231216/20231216111018.jpg      


なるほど、階段をグルグルのぼり、カーテンをくぐると即落下、その重みで、吊り下げられた毒の刃が回転する、というしくみがなんとなくわかる。「逃げ道」などないに等しい。一点残念なのは、星の刻印(虫にしか見えない)が、屋根の上にきてしまっていること。


「違う!オレはネズミが死ぬ前に星空を見上げられるように、刻印は天井部分にほどこしたはずだ!」


なんていわれそう、、、。
いずれにしても、死にゆくネズミが最後に星をみられるなんて、エメラルドダストとは違い、この仕掛けには「オレ」の慈悲心が滲み出ている。

ゲームを楽しんでる?ネズミ捕りさん by エセル

仕掛け道具を作った翌日「オレ」は初めて生きたネズミに遭遇する。
そこで衝撃の事実が判明。


なんとあの妖怪婆が、子守唄を口ずさみながらネズミに餌を与えていたのだ。
丸々太ったネズミたちは何不自由なく幸せそうで「オレ」はネズミとの心理ゲームに燃えていたというのに、肩透かしをくらったような気分だった。



(注:お婆さんだから髭はありません)


もちろんネズミに非はないが、奇妙な光景に「オレ」は身震いする。
せめてもの救いは、エセルが仕掛け道具を美しい!と賞賛してくれたこと。意外な反応を受け、オレはその「死をもたらす新しい道具」の構造について弁舌をふるうのだった。


「そこに何が見える?・・・ほかには?」などと問いかけながら、熱く語るその姿は、『忘れられた巨人』の修道院において、戦士ウィスタンが少年エドウィンに、砦の構造とその目的を教示する場面を思い起こさせる。過去にブリトン人がサクソン人の集団殺戮を行っていたその砦は、造りそのものが、人の心理を利用した完璧な仕掛け罠となっていた。ウィスタンの復讐心は根強く、過去の記憶を奪っている雌竜クエリグを退治することが最終使命であった。「オレ」の使命も、もはやモンスター化したネズミを倒すことであり、その思いの強さは、ウィスタンと同レベルであったに違いない。

ワインは何色だったのか?夜の散歩にて

ある日エセルが夜の散歩をしようと誘ってきた。「オレ」にとっては姫と二人きりになれる千載一遇のチャンスである。しかしこの甘い誘惑こそが罠だった。夜の森は、湖が凍るほどの寒さだったのに、エセルは持ってきたワインを注ぎ、ちびちびと飲み、こうつぶやく。


わたしはなにが欲しいの?なにを求めているの?


たとえば、どんなに仕掛け道具が素晴らしくても、ネズミが欲しがるものは何かを考えることのほうが重要なのではないか。あの階段を上りたくなるような何かを。エセルは自分に置き換えて自問してみても、答えはどこにも見当たらず「オレ」にそう詰め寄るのだった。


屋敷に閉じ込められた、孤独な姫の悲痛な胸の内を聞いたオレは、ついにこう言う。
「オレとここから逃げよう、一緒に暮らそう」と。


しかし返ってきた言葉は、思いのほか冷たかった。端的に代弁すると、とっととワインを飲んで帰ってくれ、とのことだった。「オレ」はしぶしぶワインを飲み干し、エセルと別れ、帰路を歩き始めたのだが、、、


身体がうまく動かせない。どうやらワインに毒を盛られた。エメラルド・ダストだろう。手足がもつれ、激しく身もだえ、ついに倒れてしまった。オレは罠にかかったのか?ゲームに負けたのか?それともネズミの祟り?犯人はだれ?


もう駄目だと思ったその刹那「オレ」の目に飛び込んだのは、皮肉にも満天の星だった。「オレ」はネズミではない。でも気分はあの「仕掛け道具」の中にいるかのようだった。生死をさまよう「オレ」と、きらめく星々。光と闇が同居するファンタジーは、この世のものとなって「オレ」に降りかかっている。


そしてそのファンタジーは「紙芝居」という縮図となって、私の目の前に降りてきた!


それにしても、
緑色のエメラルド・ダストを含んだワインは
何色だったのだろう。




次回へつづく
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Escape Routes『逃げ道』ナオミ・イシグロ

『逃げ道』( Escape Routes , 2020 ) は、英国作家の新星ナオミ・イシグロのデビュー作となる短編集です。



父の名は、あのノーベル文学賞作家カズオ・イシグロということで、注目せずにはいられません。作風は?父の影響力は?と期待に胸を膨らませながらページをめくる時間は至福の時でした。


なんでもない日常に潜んでいる人々の悩み、不安、孤独。どのお話も、語り手の思いは手に取るようにわかるのに、わかり合えなていない周囲の人々。そんな憂き世を繊細に描きつつ、いつのまにか妖精の国へといざなう手法は斬新で、まるで大人のおとぎ話のよう。ふわっと放たれた魔法の国に、読者は迷子になってしまう。でも不思議なことに、置いてきぼりを食らったというよりは、はれやかな解放感とでもいえましょうか、そんな気分に浸ることができる作品群です。


訳者、竹内要江氏のあとがきによると、ナオミ・イシグロは、アンジェラ・カーターやニール・ゲイマン、ジョージ・ソーンダースなどから影響を受けているようです。ニール・ゲイマンは、現実とファンタジーの入り混じる本作についてこう評しています。「はじまりは繊細なクモの巣のようだった物語が頑丈な罠のような結末を迎える」と。なんという表情豊かな、ファンタスティックなコメントでしょう!はやくも今後のご活躍が期待されます。


ところで「逃げ道」というと、どうしてもネガティブな印象を受けてしまいますが、実はそうではないと、この物語は静かに教えてくれています。どうしようもなく行き詰まったときは、いったん異世界へいってみる、実際旅立つことは不可能でも、空想することで十分効果を発揮するのです。


それは、少し離れてたところから、今いる環境を振り返って眺めてみること、自分という人間を俯瞰してみることです。小さな世界に生きていなかったか、固定観念にとらわれていなかったか、自己欺瞞に陥っていなかったか、家族やパートナーの意外な一面は、近すぎて見えていなかっただけではないか。そんなことを考えさせられます。


際立って目についたのは「perspective」という言葉。全体に散りばめられたこの言葉からは強いメッセージ性を感じました。新たな視点、違った角度からで物事をみてみれば、この世界は今までとは様子が変わっていく。勇気をもって開いた扉の向こうには、一度「逃げた」からこそ映る新たな景色「未知なるもの」があるのです。そんな思いが込められているように思います。


人生いろいろあるけれど、ほんの少しでも前向きになれるようなエンディングは、父カズオ・イシグロ譲りなのかもしれません。


作品群の並びは以下の通り

  • 魔法使いたち
  • くま
  • ネズミ捕りⅠ
  • ハートの問題
  • 毛刈りの季節
  • ネズミ捕りⅡ 王
  • 加速せよ!
  • フラットルーフ
  • ネズミ捕りⅢ 新王と旧王


こう見ると、自然と目を引くのは「ネズミ捕り」ではないでしょうか。間をあけてなお続く物語は、間違いなくメインストーリーの風格があります。となると間に入っている物語は何を意味するのか?まさか連続ドラマの間にあるCM的な?そんなことはないはず?


時代的にも、中世の雰囲気がある「ネズミ捕り」は、現代を描く他の作品とは対照的です。テーマ性に繋がりがあるのでしょうか?読む前からワクワク感が止まりません。


というわけで次回は、個人的にもドはまりした「ネズミ捕り」という物語に焦点をあて、ご紹介したいと思います。

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J.K.ユイスマンス『ルルドの群集』

フランスの田舎町、ルルドをご存じだろうか。
ピレネー山脈のふもとにあるこの町には、かつて聖母マリアが出現したといわれる洞窟がある。現在もカトリック教徒の巡礼地として知られ、世界各国から訪問者が絶えることはない。




ことのはじまりは1858年、この地で、貧しいひとりの少女が不思議な体験をする。彼女の名前はベルナデット。薪を集めるため、下のきょうだいたちとマサビエルの岩山までやってきた。その下にある広い洞窟に枯枝が蓄積されているの発見。しかしそこへ行くには川を渡らねばならない。苦心していたその時、風が鳴るような音がした。白いベールに包まれた聖処女が現れたのだ。柔らかな光に包まれ、ベルナデットは難なく対岸へ渡ることができた。聖処女は、その後同じ場所で18回にわたり出現する。しかしそれはベルナデットだけにしか見えなかった。熱心に洞窟に通うベルナデットを家族や親せきは擁護するが、周囲の人々のなかには、不信感をもつ者もいた。幻覚か、妖精か、魔法使いか、虚言か、などと疑いをかけられた。本当に聖母マリアが現れたのか、我こそ真相をつかもうと、彼女のあとについてくる者は日に日に増えていった。早朝、あるいは前夜から人々が集まり少女を待ちわびる。神父、警察、兵士、医師などを含むその群集は、ついに5000人以上に膨れ上がった。洞窟の湧水を飲んだり身体につけると、病気が治癒した例もあり、しだいに崇拝の場となっていく。聖処女がベルナデットに告げたことは主に以下のとおり。


「ここに2週間続けて来てほしい」
「私はあなたをこの世で幸せにするのではなく、別の世で幸せにすることを約束します」
「罪人たちのために祈りなさい」
「洞窟の泥水の底にある水を飲み、体につけなさい」
「聖体行列がなされるよう、ここに礼拝堂を建てるよう神父に伝えなさい」


極限の貧困家庭で育ったベルナデットは、病弱なうえに、フランス語の読み書きができなかったゆえ、これらの言葉はルルドの方言が用いられたという。そして知能レベルの極めて低い彼女にとっては、幻覚や、虚言、魔法つかいなどの概念すら理解できない。彼女は決して自分の利益で動いているのではないと神父が判断する。その証拠といえる一例が、聖母マリアに、お名前をお聞きした場面にもみられる。返ってきた言葉は「わたくしはイマキュレ・コンセプシオンです」。フランス語がわからないベルナデットには難しく、神父には「イマキュラダ・カウンシェチウ」と伝える。そんな名前があるわけないと一蹴されるが、実はその名こそ「聖母マリア」のことだったのだ。たちまち町には「マリア様が降天された」ということが知れ渡った。聖母マリアの最後の出現となった1858年7月16日、光の中でひざまずくベルナデットは喜びに満ち、これまでで最も美しい姿だった。


(ここまでは以下の文献に依拠した)
信仰と医学 : 聖地ルルドをめぐる省察 / 帚木蓬生著 ( 2018 )
聖母マリア出現の全容を把握できるほか、医学的な側面での解説、ベルナデットのその後の人生、またこの奇跡を基に描かれた書物への言及もあり、大変興味深い。



*******


ずいぶん前置きが長くなったが、J.K.ユイスマンス著『ルルドの群集』(1994) は、マリア様出現にまつわる物語ではない。ルルドの実態を、ユイスマンス自身が見たまま、感じたまま赤裸々に語ったルポタージュである。


原タイトル:Les foules de Lourdes , 1901


ユイスマンスといえば『さかしま』の神秘な世界観を想起する。ルルドもまた、不治の病が治癒する奇跡の聖地として、それだけで神秘の香りがするのだが、そんな淡い期待は早くも覆されてしまった。彼がまず感じたのは、次々に押し寄せる巡礼団の波、ロザリオ聖堂の中で眠る人々、観光地、ピクニックのようにベンチや芝生で食事をとっている群集への嫌悪であった。


とはいえ、国際大巡礼の日、ヨーロッパ中から巡礼団が訪れる様子を、皮肉ではあるものの、ルルドの町を夢の町のごとく幻想的に描写しているところは、ユイスマンスらしく、なんとも救われた気分になる。

ルルドは四方からしっかりと締めつける山々の帯に巻かれて、はやはじけそうだ。雨もやんだ。空からあくまでも清らかな、紫色の粉が、くっきり線を描く山々の上に降り落ちてくる。大小のジュールの岩山は、灰白色の甲羅を陽光のもとで黄金色に輝かせている。その横腹にはりついた感じの牧場は、目のさめるような何枚かの緑の板である。斜面に掘られた溝に沿うてなにかが登ってくる。一匹の虫が這いあがってくるようだ。登山電車である。日ざかりの中を、また、トンネルの影の下を、頂上までゆるゆると這いのぼる。陽の光がまるで、幸福をぱらぱらとふりまき、喜びをまき散らしているみたいな谷間に、狩猟のらっぱの音がひびき、はるか遠くの道を荷車を押して行く屑屋に何かを呼びかけているふうだ (p.53-54)


彼の内部には「ルルドの印象は二つあり、対立し、両立しがたい」という。ひとつは、上記のような群集への嫌悪感。加えて奇跡の治癒を求めてやってくる人々の、見たこともないような悲痛な症状、難病者。かれらが泉で水浴する姿は、目を背けたくなるような有様。ユイスマンスは辛辣な言葉でもって表現することも厭わなかった。ここは負傷者の横たわる戦場である。「中世の寓話に出てくる怪獣のようだ」「この痛ましく、悲惨きわまりない空間に、二度と足を踏み入れたくない」「自分だけはあんな風に苦しまないでいることに感謝する」などといった感じ。


そして対極するのが、不治の病が、水浴のあと一瞬で治癒する奇跡を目の当たりにして感じる熱い信仰心である。不平もいわず、誰もがひたすら祈り続ける。病人とそれに付き添う人々が、完全にわれを忘れて聖母に向かい、願いをささげるその姿に胸を打たれるのである。ここには聖母がいる。奇跡の癒しがある。たとえ奇跡がもたらされなくとも、聖母は魂だけは救い、忍耐と勇気を与えてくださるはずだ、と確信するのだった。


ところで奇跡の癒しとは、いったい何によるものなのか。人々の疑問はその一点につきる。ユイスマンスは三週間の滞在中、毎日礼拝堂や病院を視察し、医師ボワサリー博士から、様々な治癒例を聞いた。


取材すればするほど、次々に浮上する仮説と疑問。そのどれもが科学的、医学的な裏付けが認められず、回りまわって突き返されてしまう。どれもこれも理論矛盾に陥ってしまうのだ。自分の意思とは関係なく湧き上がる同情心や理想も、また同じである。


「いったい誰がこうした力を動かすのか」「自然だというのか、なんとばかげたことよ」「奇跡なんぞ、もうどうでもいい」と投げ捨ててもみる。


「ただ、奇跡を信じない者、迷う者は、自分の理性と感覚の範囲外のものを理解できない人たちである」この言葉にはエミール・ゾラへの批判も含んでいるだろう。エミール・ゾラもまたルルドを訪問し、ユイスマンスより早く『ルルド』 (Lourdes", 1894 ) という小説を書いているが、奇跡を認めない、事実無根の彼の解釈に違和感を感じていた。ユイスマンスは自分の目でみたルルドを、熱い信仰心でもって、いまようやく受け入れることができたのだろう。


そしてルルドの癒しとは、いまだ解明されていない驚異に属するもの。魔術のような奇跡が、突如として成し遂げられる、ただそれだけのこと、神か聖母に祈らねば何事も起こらぬのだから、と結論づける。


ユイスマンスは最後にこう述べる。
「とにかく一度はルルドを見なくてはならない」と。
ひたむきにひとつの陶酔状態のなかで生きている夢の町。無限の穏やかさに満ちる町ルルドを。


病に侵されつつ執筆したというこの作品、気のせいか、後半はユイスマンス自身の深い祈りが、随所にこめられているような気がした。わたしたちは簡単にルルドへ行くことはできない。それならば、この彼の渾身の晩年作『ルルドの群集』を、とにかく多くの人に読んでもらいたいと願うばかりだ。


ほかにもルルドに関する作品は数多くあるので、興味のある方はぜひ探してみてください。


*マトン神父の『ルルドの出現』は、ネットでも公開されています。
dl.ndl.go.jp

ルルドの奇跡 : 聖母の出現と病気の治癒 / エリザベート・クラヴリ著 ; 遠藤ゆかり訳
 ユイスマンスと、エミール・ゾラの『ルルド』の言及あり。



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『浮世の画家』思案橋でためらってみる

長崎の旅、後半は、
長崎市随一の歓楽街「思案橋」。




ここは、カズオ・イシグロ著『浮世の画家』に登場する「ためらい橋」(the Bridge of Hesitation)のモデルとされている場所です。


残念ながら、現在は川が埋め立てられていて、橋ではなく、交差点名や、路面電車の駅名になっています。



それにしても珍しい名前ですね~。


この橋で、多くの客が享楽の花街へ行こうか、やっぱり家に帰ろうか、思案したことに由来するということで、大変趣があります。


夢と現実「浮世」と「憂き世」の境界線がここにあったのですね~。


その名にちなんで、私もひとつ、ためらったてみたことがあります。


それは、夜にいこうか、昼に行こうか、ということ。くだらない?かもしれませんが、私のなかでは大問題。もちろん聖地巡礼という意味では、夕方から夜の光景は必見だったのでしょうけれど、思案した挙げ句、なぜか真っ昼間にいくことになりました。


昼下がりの思案橋横丁、さすがに準備中の店が多かったです、夜の変貌ぶりが見られなかったのはちょっと残念、、、。




浮世の画家』の主人公である小野益次も、若い頃はこの辺りのバーで、弟子たちと活発な意見交換をしていました。そして年を重ねた今も、週に3~4日はここ「ためらい橋」にやってきては、もの思いにふけるのでした。


かなりの頻度!


しかしその内面は「ためらい」ではなく、人生の黄昏時に感じるノスタルジーに近いものがありました。


その時のセリフがこちら↓

ときどき思案顔でその橋の欄干に寄りかかるが、べつにためらっているわけではない。夕日が沈むとき、そこから周囲を見回し、刻々と変わる景色を眺めるのが楽しいのだ。p.147


しかし重要なことは、読者はここで一緒にたそがれてはいけない!ということ。


小野のひとり語りで展開するこの物語は、ときどき過去の時空が歪められています。


意図的か、老いのせいか、そこは謎。


小野がこの橋で回想するエピソードは、重要なシーンであるものの、真実を疑ってみる必要があるし、そこから浮上するいくつかの可能性が、この物語のカギをにぎっているように思います。


さりげなくも、意味深い。


小野の考える「floating World」とは何だったのか、そんなことを感じてみた場所、思案橋でありました。



余談:奇しくも稲佐山展望台のカフェに、思案橋スコーンというものがありました。
おいしかったです!


ネット販売もされているようです
CafeBARU




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『遠い山並みの光』を辿る旅

いわずとしれた、カズオ・イシグロの出身地、長崎を旅してきました。


市内の、実に7割の建物が斜面に建っていると聞いて驚いてしまいましたが、長崎港を覆いつくすような山並みの景色は、昼も夜も、独特の風情がありました~。


蒸し暑くて、今にも雨が降り出しそうな空の下、まずは路面電車を乗り継いで「新中川町」へ。


ここもまた、坂の町でした。


カズオ・イシグロは、5歳までこの地で過ごしたといわれていますが、具体的な場所は明らかにされていません。

なので、ぶらぶらと散策して思いを馳せるのみ。目に映るものは、新旧混在した建物や、坂道、川、橋、アパート、、、自然とデビュー作『遠い山並みの光』の様々なシーンも蘇ってきます。



主人公悦子が中川町へ行くのは、うどん屋を経営する藤原さんを訪ねる時でした。

その辺は坂が多いのだが、両側にごちゃごちゃと家が建っている急な狭い道をまた登っていくと、心の奥に虚しさをおぼえずにはいられなかった。(p.28)


悦子は、この地にあまり良い思い出がなかったようですね。



後日、義理父(緒方さん)と再び訪れた際も、少々ネガティブな発言をします。

何年もたっているのに、この辺りはたいして変わっていなかった。狭い道筋は、上ったり下がったりしながら、くねくねとつづいていた。......坂道ぞいでも建てられるところにはどこにでも建っている。傾斜地にあぶなっかしくつかまっているような家もあれば、まさかと思うほど狭い場所に割り込んで建っている家もあった。(p.200)

ネガティブとはいえ、ここはイシグロさん特有のユーモアが詰まっていて、なかなか面白いフレーズなんですよね。しかも中川町に限ったことではなく、長崎の市街地全体の風景を言いえているなあと、今回訪れてみて思いました。



お次は美術館と平和公園
悦子が緒方さんと長崎見物に訪れた(と思われる)場所です。

長崎県美術館は、コンパクトでスタイリッシュな様相。水辺の森公園のすぐそばにあって、落ち着いた、とても気持ちの良いところです。長崎ゆかりの美術と、西洋(スペイン)の作品を鑑賞しました。



そして平和公園
エスカレーターを上がると、長い緑地と遊歩道があり、噴水を超えると、、、



一番奥に祈念像が見えてきます。徐々に厳かな空気が漂ってきて、手を合わせたくなります。


しかし、この像を見上げた緒方さんは、たしかこう言ったっけ?
「写真で見るほど立派じゃないな」。


悦子も負けじと、このように表現します。

巨像はたくましいギリシャの神に似ていて.......右手で原爆が落ちてきた空を指し、もう一方の手を左にのばしているその像は、悪の力をおさえていることになっていた。目は祈るように閉ざされている。わたしは以前からこの像の格好がぶざまな気がして、原爆が落ちた日のことやそのあとの恐怖の数日とはどうしても結びつかなかった。遠くから見ると、まるで交通整理をしている警官の姿のようで、こっけいにさえ思えた。(p.194-5)

一見、道理に反する発言にも思えますが、ここはイシグロさんのユーモアというよりは、幼少期の印象を、そのまま素直に表したものではないかなあという気がします。実際は青色の像を、小説では「白い巨像」としたのも、イメージを優先させたからかもしれません。


わたくしの率直な感想はというと、像のお顔が、、、どうも日本人離れしているなあということです。モデルになった人物(神?)はいたのでしょうか。ご存じの方がいらっしゃれば教えてください。


『遠い山並みの光』では、原爆投下に関する直接的な描写はないのですが、この小説の前身となった短編『奇妙な折々の悲しみ』 "A Strange and sometimes sadness (1981)" では触れられていますので、ぜひ合わせて読んでいただきたい作品です。



さて次に向かったのは、稲佐山の頂。
山頂と淵神社を結ぶロープウェイでのエピソードは、この小説の山場といえる名シーンです。

悦子は最近知り合った佐和子と、その娘とともに、行楽気分でロープウェイに乗るのですが、それは悦子にとって、いつまでも記憶に残る、特別な日となりました。そこで出会ったアメリカ人親子との交流、佐和子が話題にする『クリスマス・キャロル』の意味、そんなことを思い出しながら、念願のロープウェイに乗りました。平日の夕方、しかも悪天候とあって、なんと貸し切り状態でした。贅沢~。



展望台からの眺め。

この景色を眺めながら、自由で奔放な佐和子は「過去ばかりふりかえっちゃだめね.......将来に希望を持たなくちゃ」(p.156)と言うのです。戦後を生き抜いた女性の希望に満ちた言葉。過去、現在、未来、『クリスマス・キャロル』になぞらえながら、フェミニズム的思想がうかがえる印象的なシーンです。佐和子の言葉がこだましたようで、なんだか元気をもらえました。


夜になるとこんな感じ。


さすが世界三大夜景に選ばれているだけありますね!
モナコ、上海、長崎)


同じ景色なのに、昼の顔と、夜の顔は、まるで違っていました。
移ろいゆく光景、どちらも圧巻です!


ちなみに、これは対岸からみた夜の稲佐山


発見と満足の旅、次回に続く、、、、。


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